三浦綾子「泥流地帯」の舞台、北海道空知郡上富良野町草分地区に58年前住んでいました

今回のブログは、「三浦綾子「泥流地帯」の舞台、北海道空知郡上富良野町草分地区に58年前、住んでいました」とのタイトルのブログです。三浦綾子著「泥流地帯」の名をお借りした本当に「えっ」と驚くようなローカルなブログです。でも、お付き合いいただけたら嬉しいです。

先月、11月19日ですが第32回東京ふらの会に参加しました。そのブログも先月にしたためておりましたが、この第32回東京ふらの会、私、ふらぬいにとっては大きな収穫があったふるさと会でもありました。

ブログ仲間の方はご存知と思いますが、私、ふらぬいは第一の故郷(生まれ故郷)は北海道雨竜郡沼田町字浅野、旧浅野炭鉱(沼田町は空知総合振興局に属します。浅野炭鉱の街はホロピリ湖底に沈んでおります)でありまして、その町で生まれ、7歳の7月まで住んでおりました。父の転職でその後は空知郡上富良野(かみふらの)町(上富良野町は上川総合振興局に属します)に移りました。この上富良野町が第二の故郷になります。(ついでで申し訳ありませんが、第三の故郷が札幌市、第四の故郷が現在住んでおります横浜市です。) 上富良野町の市街地に移る予定でしたが、その転居先の住居というか建物が完成しておらず、その年の7月から12月まで、上富良野町草分(くさわけ)地区の田中勝次郎さんの大きな家に家族ごと住まわせていただいたのでした。その家は田畑に囲まれた大きな建物(お屋敷?)で周りが鬱蒼とした防風林とか防雪林という木々に囲まれておりました。その家から、上富良野町草分地区にある創成(そうせい)小学校に小学生2年の夏休み明け、8月から12月まで通いました。12月の冬休みに上富良野町市街地の転居先住居、建物に引っ越しまして、翌年1月、冬休み明けから上富良野小学校に転校したのです。この話は昭和30年のことですから、かれこれ58年前になります。(私は創成小学校をずっと草分小学校と間違って記憶していました。どちらも初めて開墾するとかの意ですからね)

私、ふらぬいの自分史?の中で、その58年前の1955年、浅野炭鉱から上富良野町移住における、上富良野町草分の田中勝次郎さんのお宅の住所がどうしてもわからなかったのでした。
私の長兄(平成元年死去)は富良野高校を卒業後、上富良野町役場に奉職しておりましたので、どこにその住居があったのかは知っていたはずなのです。すっかり聞きそびれておりました。私の次兄は富良野高校卒業後、上富良野町を離れ、国鉄釧路鉄道局そして、JR北海道の釧路方面に勤めておりまして、定年退職を機に彼には第三の故郷になる上富良野町に家を建て戻ってきております。彼は、上富良野町草分時代、著名な方の大きなお屋敷に、我がふらぬい家は住んでいたことを知ってはおりました。でも、私はあまり興味を示すことはなかったのでした。名前だけは存じ上げておりましたが、その方がどのような仕事をされていた方で、その建物(お屋敷)が草分地区のどの場所にあったかですが。

今回の東京ふらの会で富良野平原開拓者のお孫さんにあたる方(清野彬さん)のお話を聞くことができました。清野さんは、富良野平原開拓者、いわゆる三重団体のあの吉田貞次郎さんのお孫さんにあたる方でありまして、上富良野草分出身の方であります。清野家は富良野沿線、さらに旭川市、上川地方にあっても著名な方でした。お名前を出してしまいましたが、その方に私が、「かって草分に住んでおりまして、草分にあった創成小学校に通ったこと。通学路は創成小学校から旭川方面に戻り、一番最初の十字路を右折し、富良野線線路側に大きなお屋敷があったところに住んでいたこと」を話したところ、それは上富良野町西3線北29号の田中勝次郎さんのお屋敷であったと教えてくれたのです。びっくりしました。ちなみに草分地区の創成小学校は同西3線北28号にあったと。
また田中勝次郎さんは、これも富良野平原開拓者三重団体のもう一方の著名人、田中常次郎さんの孫にあたる方で、上富良野村長また初代上富良野町長でもあった方と教えてもらったのです。
私はなんと言っても当時はまだ小学校2年生で何事も兄二人に”くっついていただけ”なので、草分に住んでいたことについて結局は何も知らなかったのです。知ろうともしなかったのでした。

今回、第32回東京ふらの会に参加された河村一郎さん(またお名前を出してすみません。上富良野出身の著名人ということでお許し下さい)からいただいた上富良野町史、「郷土をさぐる」、のすべての巻を調べて、私の父がなぜ浅野炭鉱を離れて上富良野町にくることになったか。また、一時的にでもなぜ草分の田中勝次郎さん宅にお世話になることになったかわかりました。当時、上富良野町における父の新しい勤務先の上司の方が田中勝次郎さんと懇意な方だったのでした。その父の上司の方に私、ふらぬいも大層可愛がっていただいた記憶はありますけどね。

私、ふらぬいがかって住んだ田中勝次郎宅の近くに、今では富良野平原開拓発祥之地の碑が建っているとのことです。私はまだ見たことはありませんが貼り付けます。

富良野平原開拓発祥之地
http://ouenkitanodaichi.web.fc2.com/furanohtml/heigen.html

また、私が小学校2年の2学期に通った創成小学校の跡地に上富良野町開拓記念館が建っております。この記念館は吉田貞次郎宅を移設したものだとか・・・。

上富良野町開拓記念館(創成小学校跡)
http://ouenkitanodaichi.web.fc2.com/furanohtml/kamifukinen.html

新しいものに代わっておりますので、懐かしいとの感じはまったくしませんが・・・。

この上富良野町草分地区はもともと三重団体が富良野平原の大地に初めて開拓のクワを入れたところだそうです。この地が富良野村となったのは1897年、上富良野村と下富良野村(現在の富良野)と分村したのが1903年、上富良野村はその後、1917年に上富良野村と中富良野村に分村しています。

その上富良野村を、1926(大正15)年5月24日、十勝岳大爆発により発生した大規模な泥流が襲います。上富良野・美瑛・中富良野各村に甚大な被害を与え、死者・行方不明144人、被災戸数482戸、田畑全滅1187町歩と言います。その被害の中心が上富良野村草分地区、あの三重団体が初めて富良野平原にクワ入れした、上富良野(フラヌイ)の草分地区だったのです。田中常次郎宅はなんとか泥流の被害を逃れたと言います。
そして、その田中常次郎さんのお孫さんである田中勝次郎さんのお宅に、我がふらぬい家が今から53年前の5~6ヶ月の刹那の期間、お世話になったのでした。

三浦綾子の小説「泥流地帯」は、1976(昭和51)年1月より9月まで北海道新聞の日曜版に連載されました。後編の続泥流地帯は、その二年後の1978(昭和53)年2月から11月まで同様に北海道新聞日曜版に連載された作品である。十勝山麓の上富良野の農村を舞台にした、1926(大正15)年の十勝岳大噴火を題材にしている。
当時、私、ふらぬいは第二の故郷上富良野町、第三の故郷札幌市を離れ、第四の故郷横浜市で国内向け及び海外通信事業者向けマイクロ、衛星通信システムの監視制御装置の開発設計に勤しむ毎日を過ごしておりました。

自分史のわからなかった部分に光が当たったことで書き始めたブログでしたがあまりにローカルすぎて消化不良のブログでもありましたね。罪滅ぼしと言ってはなんですが、上富良野町の風景を歩きで堪能してもらえるかもしれませんので、故郷上富良野のかみふらのフットパス1、2、3、「YouTube」にありましたので貼り付けます。

かみふらのフットパス1
http://www.youtube.com/watch?v=k08OC8iK7Ms
かみふらのフットパス2
http://www.youtube.com/watch?v=6JjqduKHOlg
かみふらのフットパス3
http://www.youtube.com/watch?v=kL3TLaE8h-c

残念ながら草分地区は出てきませんでしたが日新地区はありました。泥流地帯で被害を受けた地区には、日の出ダム、日新ダムという十勝岳の麓から流れ出る硫黄を含んだ水を浄化するための農業用水用ダムがあります。
ちなみに、フラヌイとはアイヌ語で、”(硫黄の)においをもつもの”と意味があるのです。富良野はアイヌ語フラヌイの当て字です。私たち富良野出身者はいつも「ふらの」とはの意味を問われると、「良い野に富む」ところが富良野ですと答えます。今では上富良野は肥沃な農地をもつ農業と畜産の町、そして十勝岳を有する風光明媚な観光の町、ラベンダーとホップの町、そして自衛隊が駐屯する町でもあるのです。何か忘れているような気がしますが・・・。

三浦綾子「泥流地帯」の舞台、北海道空知郡上富良野町草分地区に58年前住んでいました、とのブログでした。









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この記事へのコメント

田中千穂
2019年10月25日 22:20
自分の故郷を検索していたら、このブログにたどり着きました。ビックリしました。
草分の清野さん、私は子供の頃祖母と一緒に何度も遊びに行きました。祖母の家は国道沿いの30号で清野さんのお宅は斜迎えなのです。草分にはおそらく清野さんはそのお宅だけだったと思います。
私も東京に住んでいたら、東京富良野会に参加してみたかったです。故郷を離れて33年経ちました。又読ませていただきます。自分の故郷の詳しい話、私も知らない話が沢山ありがとうございました。

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