ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、どっこい

今回の「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は”どっこい”です。今回で25回目になります。なんで”どっこい”ですかとお訊ねになりますよね。もう、25回目にもなりますので、ここらでさらに一踏ん張りと力を入れるために”どっこい”とかけ声を付けさせて頂きました。と言う訳ではありませんで、團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」にあやかって名付けております。團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」は第27巻の”さよなら”まで続きます。次回の26回は”シットリ”です。と言うことはあと2回でこの「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」が終了してしまうことになります。本当に終わりになってしまうのでしょうか。多分そんなことないのかなと思いますが・・・。

浅野炭鉱ブログ仲間の”あさのQ”さんから、昨年末、”浅野の山親父”さんのブログがあることを教えていただきました。「北海道雨竜郡浅野炭鉱の思い出(浅野炭鉱小・中学校時代の記憶)」と題する浅野の山親父 さんのブログです。

そのURLを記載しますと
http://asano-numata1948.seesaa.net/
です。

”浅野の山親父”さんは、昨年9月からそのブログを公開されておりました。浅野炭鉱を第一の故郷、生まれ故郷、とする、私、ふらぬいとしましても、確かにその通りだった、やはりそうだったかも、と興味深く読ませていただきました。またこれからも興味をもって読ませていただきたいと思います。また、そのブログには浅野炭鉱の街の懐かしい写真も貼付されており、そちらも興味深く拝見しております。これからもよろしくお願いします。

ブログによりますと、”浅野の山親父” さんは、私、ふらぬいより1歳お若いことになるのでしょう。現在札幌在住で、浅野炭鉱時代は、当初、東(あずま)町に住んでおられ、浅野を離れる時には大原町に転居されていたとしたためておられました。転居時には、私が幼少の頃(0~5歳くらい)に住んでいた大原町の炭鉱住宅の近く(沼田町浅野地区史跡図によります)にお住まいでしたね。私の大原町時代の炭鉱住宅は裏に小さな広場があって、そのまま炭鉱病院に続いていましたからね。住んでいた時期は違いますが、場所的には大原町で本当に近所に住んでおられたようです。私の記憶では、私の大原町の住まい(一番道路側です)とは道路を挟んで2軒長屋が2棟、玄関が道路側を向いて、少し曙町側の高みにありました。我が家に近い方の棟の向かって左側の住宅には、3~5歳頃ですが、よく遊びに出かけました。私と同年齢の女の子が居たか、私の母親と彼女の母親が親しかったのかも。早めにあちらのお家も、ふらぬい家も引っ越してしまいましたので、お名前は忘れてしまいました。

”浅野の山親父”さんのブログには、浅野ブログ仲間では大いに話題になっておりましたところの、大沼時計店や堀田商店、その写真が掲載されていました。確かにそれらのお店があったこと写真で確認できました。私、ふらぬいは浅野の町では自分で買い物をした記憶はありませんが、ブログ仲間で作成した沼田町浅野地区史跡図にその大沼時計店や堀田商店の所在を示す記載があります。

いつも貼り付けております沼田町浅野地区史跡図を貼り付けます。相変わらず更新されていないことお詫びしますが、怖い吊り橋近くに瑞巌(ずいがん)寺、新雨竜駅の木材工場側に妙勝(みょうしょう)寺、浅野郵便局の側(そば)に沼田町役場の出張所がありました。

画像


今回、”浅野の山親父”さんのブログで、浅野の町の東(あずま)町、台(だい)町、川添(かわぞえ)町などの位置が確認できました。昭和32年の地図ですね。私、ふらぬいが浅野を離れたのが昭和30年7月(7歳の時)ですが、その2年後の当時、既に、東町、川添町、台町などはこのように多くの住宅(炭鉱住宅?)があって、浅野炭鉱の街の賑わいぶりが偲ばれます。

”浅野の山親父”さんのブログの写真では、私が沼田町浅野地域史跡図に、ここに吊り橋があった、ここにお米の配給所があったと記載した場所に実際それらのものがあったのかとの確認はできませんでした。もしかしたら、私の記憶違いでどちらも位置が違っているのかも知れません。
でも、相変わらず、古河雨竜鉱業所の事務所近くの橋と堀田商店近くの橋の名称はわかりませんでした。もしかしたら、正式名称など無く、通称で”なんたら橋”と呼ばれていたのかも知れません。
昭和32年の地図から、ホロピリ湖底に沈んだ浅野炭鉱の街の佇まい、昔の浅野炭鉱の町の立体的なイメージが思い浮かびます。
そう言えば、浅野炭鉱ブログ仲間でやはり東町出身のニックネーム、”クマ”さんも、私と多分同年代、昭和22年生まれで、”浅野の山親父”さん同様、東町からの浅野小学校、中学校通学は大変だったと書いてくれておりました。

その”クマ”さんも、”浅野の山親父”さんももともと”ヒグマ”をニックネームに使っておりますので、もしかしたら浅野炭鉱の近くにはヒグマが出没していたのでしょうか。私、ふらぬいの第二の故郷、上富良野や富良野では、ヒグマ出没はよくありました。それで、あの炭坑節(たんこうぶし)に合わせて、”クマが出た出た、クマが出た、ヨイヨイ”と歌っていたのですが・・・。富良野を舞台にした”北の国から”の名場面にもありましたが・・・。

”浅野の山親父”さんのブログを教えて頂いた”あさのQ”さんの、”あさのQ”ブログ(http://08046784.at.webry.info/)ですが、この正月、きちんと読み直してみて新発見がありました。実は、浅野写真 No.73-2,74-1,2 60-9(http://08046784.at.webry.info/201209/article_3.html)にあった浅野中学校学芸会の写真のことです。その写真に、私の浅野小学校時代の同級生が写っていたのかも知れませんが、もちろんあまりに昔のことで分かる筈もありませんでした。しかしながら、 あの書道の掲示に、私の「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」の一番最初のブログ、”続き”のブログ、そして、”なおなお”のブログに貼り付けましたが、曙(あけぼの)町の我が家の前で、3人で撮った写真で、”吉信(よしのぶ)君”の隣りに写っていた”孝一(こういち)君”ですが、その”孝一君”のものと思われる書道の掲示がありました。その写真では名前の”孝一”の”一(いち)”の字が消えているようですが、多分、曙町の我が家の前で一緒に写真に撮った”孝一(こういち)君”の書のように思えるのです。しかしながら、同姓同名と言う場合もありますし、また、もし”孝(たかし)君”ですと友人の彼とは違うのですがね。”あさのQ”さんが、彼らは昭和20~22年生まれの中学生と書いておられ、中学1年生の書ですから、もしそうだとしたら、中学1年生は私と同級生になります。私は、多分、あの曙町の我が家の前で記念撮影した写真の中の”孝一君”の書ではないかと思いますね。あの”吉信君”なら分かると思うのですが、どうなのでしょうか。ちょっと気になりました。”吉信君”がこのブログを読んで、教えてくれると嬉しいのですがね。

それと、”あさのQ”さんが公開されているウェブリーアルバム
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/302218000d6baed0582c610cd42ffab118c63f430/64340119663850231
から沼田町浅野地域史跡図に書かれている公共の建物の細かい文字が読みとれます。それで、お寺の名称や駐在所、病院その他、当時浅野炭鉱にあった公共の建物がわかりました。それと、沼田町浅野地域史跡図に山手町、大原町、曙町、台町、川添町、東町といった町名を記載する必要に迫られてきました。また、”あさのQ”さんから学校の近くは浅野第一~第五の町名も教えていただきましたね。浅野の市街地はどのような町名だったのでしょうかね。それで、なんとか、”さよなら”ブログまでには町名を記載した沼田町浅野地域史跡図に改版したいと思います。と言うことは、いつまでたっても、ブログに”さよなら”は使えないのかも・・・。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、”どっこい”でした。

”あさのQ”さん、いつも有り難うございます。また、吉信君、もしブログを読んで回答頂けるなら嬉しいです。

ニックネーム”ブランカ”さんから嬉しいコメントを頂きました。有り難うございます。これからもよろしくお願いします。
”ブランカ”さんは昭和40年生まれですから、私、ふらぬいより一回り半、18歳お若いことになります。私が浅野小学校通学路の橋の近くで飴(あめ)を買った(浅野で買い物をした唯一記憶にある事柄)のは日下菓子店ではないかと教えて頂きました。飴を買った時期が昭和29~30年頃ですが、場所的にはあの堀田商店と道を挟んで向かい側にあった店です。”ブランカ”さんのコメントにもありましたが、全国浅野会35周年で浅野地区明細図が参加者に配られていたそうです。その浅野地区明細図には公共の建物ばかりか個人のお宅の住人名までもが記載されているとありました。その浅野地区明細図が”浅野の山親父”さんの1月8日付けブログに貼付されておりました。よくぞここまで調べて作成したものと、浅野会に、また公開してくれた”浅野の山親父”さんにも感謝致します。少し文字に見にくい部分はあるのですが、確かにその日下菓子店らしき記載がありました。昭和29~30年当時、その日下菓子店があったかは定かでありませんが・・。また大沼時計店の斜め向かいに料理店の金星も見つかり、”ブランカ”さんのお家はその隣とか・・。この浅野の町の当時の有り様を知っている人にとっては、この浅野地区明細図は宝物の地図かも知れません。その宝物の地図に我がふらぬい家の名前(大原町、曙町の家も住人名が別)はもちろん記載されてはおりません。昭和30年7月頃には浅野の町を離れましたから・・・。
もしかしたらブログ仲間で作成している地図は、ここが我が家、そして住んでいた当時、ここに何があった。あそこに誰が住んでいたとの話は、多分、この宝物の地図とは少し別で、ブログ仲間個々人が浅野に住んでいた当時の心の宝物の地図になっているのではないかと思います。それが「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」のあの地図だと嬉しいのですけどね。(1月14日 ふらぬい記)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 4

ナイス
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

ブランカ
2013年01月12日 21:11
はじめまして!ブランカと申します。
昨年から度々こちらのブログを訪問させて頂き
ふるさと浅野の記事を懐かしく拝見しておりました。
私は昭和40年生まれで就園前に転居しましたので
浅野の街の記憶はおぼろげなのですが、大沼時計店のご夫妻にとても可愛がって頂いたと母から聞いております。
父母は最初中学校近くに住んでいたのですが、のちに大沼時計店の斜め向かいに引っ越しました。
料理屋の金星さんがお隣だったそうです。
里帰りした際、父から平成15年に行われた全国浅野会35周年記念集会の冊子を見せてもらったところ
当時の浅野地区明細図が添付されていました。
個人宅、商店名なども記されています。
ふらぬいさまが堀田商店の近くで飴を買われたのは日下菓子店ではないでしょうか。
駅前の映画館はニューテアトルという名前のようです。
明細図には浅野のたくさんの商店や古川炭鉱の広告が印刷されていて興味深いです。
残念なことに町名や橋の名前などの記載はないのですが
ふらぬいさまが完成を目指されている史跡図作成に
お手伝いできることがあれば、どうぞお声をかけてください(*^^*)
くらぞう
2013年10月30日 03:34
ブランカさんへ
「浅野」でネットサーフィンして、こちらのブログにたどり着きました。コメントを拝読いたしまして、通り過ぎることができず足跡を残させて頂きます。

私は昭和35年生まれで、43年4月に旭川に転居しました。金星の隣にお住まいだったとのことですが、私の家が金星でした。ですのでブランカさんとお隣さんだったのだと思います。

私には3歳差の妹がおり、妹とお隣さんのMちゃんが遊び友達でした。いつも二人で遊んでいたような記憶があります。ブランカさんがMちゃんかとも思いましたが、ちょっとだけ若すぎる気がして、Mちゃんはブランカさんのお姉さんではないかと推測いたします。もし違う場合はお許しください。

小学校1年生までの短い期間ですが、自分の人生で浅野に住んだ時間を持てたことは本当に幸せだったと思いますね。

この記事へのトラックバック