夏の日に花盗人ならぬ、花蒔人として蒔いたコスモスが育っていました

梅雨明けしてから本当に暑い日が続いています。さらにロンドン・オリンピックが開催されていて、大好きなサッカー観戦に睡眠不足が続く毎日でもあります。でも、健康第一、食事と睡眠、休養をきちんと採り体調の維持管理はきちんと行っております。皆さんも体調管理怠りなくこの夏を乗り切っていきましょう。

つい先日のことですけど、私、ふらぬいに横浜市旭区役所から介護被保険者証がとどきました。そのお知らせの中に、「一定程度の障害のある方は、今加入している医療保険から、後期高齢者医療制度に移ることもできます」と記載されておりました。ということは、もう既に前期高齢者に達したということかなとも考えました。そうか、そう言えば団地の老人会への加入案内もきていたような・・・。この暑い最中(さなか)、高齢者予備軍ではありますが、まだまだ身体健常であっていたいと、芝生を刈りまた若葉台散歩に勤しんでもおります。

昨年の10月頃だったと思います、団地のちょっとした草原に遊び心でコスモスの種を蒔きました。
私の住まいの裏にある谷戸(やと、やつとも言いますが、元は湿地だったところです)に橋がかかっています。その下は道路になっていて、そこに私の住まいから降りていく階段があります。階段と橋と道路で区切られた場所に三角形の形をした花畑とは言えない草原(くさはら)があります。もともとは木が数本繁っていたのですが、何故か伐採してしまい、その場所はあまりに日当たりが良いためにその時の草原はまったくの枯野の草原状態になっていたのです。私が若葉台団地に入居したころはこの谷戸近辺は住宅(高層マンションです)建設前でしたので、広い草地になっており、そこかしこに色々な草花が勝手気ままに咲いていました。新しい住宅建設終了後は公園にしたり、計画的に木を植えたり花壇にしてたりして環境保全に務めてきたようです。でも、その谷戸近くの草原だけは手抜き状態になっていたように思ったのです。それで、若葉台近隣を散歩がてら、この場所に何故か若葉台散歩コースの花の色が足りないと考えたものですから、私、ふらぬいが、ままよっとやってしまったのです。つまり、コスモスの種をこの草原(くさはら)いっぱいに蒔いてしまったのです。種蒔きをしてしまったのでした。

つい最近のことです、その私が蒔いたコスモスが健気にも育っているのを確認し、少し嬉しくなったものですから、ブログに認めるというより、つぶやいてみました。草原の草の丈(たけ)が今年はあまりに生育が良く、大きく伸び、コスモスが育っているのを写真でお見せできません。もしかしたら、まもなく草と一緒に刈り払われてしまうかも知れません。もともとこの草原にコスモスを植えていることにはなっていませんからね。それで、1~2ヶ月後にコスモスの花が咲きましたら、もいちどブログに取り上げてみたいと思います。

イントロが長くなりましたが、「夏の日に花盗人(はなぬすびと)ならぬ、花蒔人(はなまきびと)として蒔いたコスモスが育っていました」との”つぶやき”です。花蒔人(はなまきびと)は私、ふらぬいの造語ですが、もしかしたら、皆さんご存じの花咲爺(はなさかじじい)でもよいのかなと思っています。後期高齢者予備軍に名を連ねつつありますからね。でも、こんなに自虐的にならずに、いくつになっても健康でかつ人生を楽しみたいものです。

花盗人(はなぬすびと)とは文字通りですと、花を盗む人、”はなどろぼう”のことです。でも、風流を解する日本人にははやり、有名な花盗人の狂言をご存じでしょう。「ある男が桜の枝を盗みに入り捕らわれますが、和歌を作って許され、酒を振る舞われる」 あの有名な狂言です。あの花盗人は風流を理解(和歌を作ったのです)しましたから、”はなどろぼう(花泥棒)”と言うよりは”はなぬすびと(花盗人)”が良いとして使われたのではと思いますね。

その花盗人狂言ですが、ちと詳しく説明しますね。

出家狂言というのに出てきます。桜が満開の季節に事件が起きます。
「ある人の下屋敷の桜が盛りだというので、一同は連れ立って花見に出掛けますが、その見事な桜に枝を折った跡があるのを見つけ、捕まえて懲らしめてやろうと待ち伏せています。そこへ来たのは近くに住む出家(僧のことです)、昨日通りがかりに美しい桜を見つけ、一枝折って稚児にあげたところ、大喜びされ、今度は大枝をほしいとねだられて、盗んだ物とも言えず、止む無く再び盗みにやって来たのでした。恐る恐る庭へ忍び込む出家。待ち構えていた客人たちはあっという間に出家を捕まえ縄で縛り上げて桜の木の元へ結わえ付けます。出家の身で盗みとはとなじられた僧は、桜に魅せられた人々が詠んだ古歌を次々に引いて、自分は盗人ではない、昔から桜の枝は折っても構わないのだと自己弁護します。そして今の有り様を歌に詠みます。『この春は、花の本にて縄(名は)付きぬ(尽きぬ)、鳥帽子桜と人や見るらむ』 感心した一同は縄を解いて、出家と一緒に花見の宴を始めます」
との内容なのです。

私、ふらぬいは花盗人を、人の花畑に花の種を勝手に蒔いて咲かせる人のことと誤解、曲解していました。花盗人とは風流を理解する人であり、他人の花畑にこっそり自分の花の種を蒔く人との理解でした。ですから、花盗人と花泥棒とは違うのではないかと考えていたのです。でも違いました。花盗人(はなぬすびと)が他人が丹誠こめて育てた花を盗む人としたら、やはり、ただの花泥棒(はなどろぼう)でした。あの狂言、花盗人が私の頭の中にあったのでしょう。でも、それは狂言の世界で風流を行うとはいえ、花盗人は花泥棒でもありました。

じゃあ私、ふらぬいがした風流なことを何と言うのかと調べました。他人の花畑とは言いませんが、自分の地所ではないところに花の種を蒔くことを、

その1 花ゲリラと言う。

花ゲリラ(はなげりら)とは、土、土壌のある場所にゲリラ的に行われる花の種蒔き、苗植え等の行動またはそれを行っている人を指します。ゲリラですからスペイン語で小戦争の意ですね。そのやり方は奇襲して敵を混乱させる方法ですね。花を他人(敵?)の花壇に植えるとしても、ちと風流に欠けますね。
でも、「空き地」、「河川沿い」、「公園」や「手入れのされていない花壇やプランター」等、土のある場所に種蒔き、 苗等を植える行為、またはそれを行っている人を指す言葉として認知されているそうです。2006年にイギリスのゲリラ・ガーデニングがNHKによって紹介され、2008年に同名の映画が製作されたことによって 行為が一般にも知られるようになったと言います。 基本的に丈夫で育成に手間がかからず花が咲く観賞用植物またはハーブ等が使用されることが多く 種蒔き後の植物の成長は自然に任せた状態である。種を蒔くだけという行為の手軽さと相まって 実行する人が増えているとのことです。

その2 花咲爺(はなさかじじい)と言う。

花咲爺(はなさかじじい)のお話はもう皆さんお忘れかもしれませんが内容をきちんと書いたものがありましたので貼り付けます。

http://www.group.iwami.or.jp/bfn/masudanominwa/hanasakajijii.htm

こちらは枯れ木に花(しかも桜の花)を咲かせることになりますから使うに当たってちと抵抗がありそうですね。でも、昔話にこだわらなければ問題ありません。花を咲かせる爺(じじい)ですね。もっと可愛い表現、たとえば花咲じーじが良さそうですがね。女性はどうするのとお訊きですね。爺(じじい)を婆(ばばあ)に換える方法があるのですが、しこりが残りそうです。”じーじ”と対抗して”ばーば”もあります。それとも、爺と婆を共通の言葉である老人(ろうじん)にするのでしょうか? 日本語の語感から受け入れられるにはちと難しいかも知れませんね。でも、中国語では老を付け加えると敬称になるのですけどね。花咲老人(はなさかろうじん)、う~ん、どうしても森繁久彌さんのオホーツク老人、知床老人(しれところうじん)から花咲老人(はなさきろうじん)と読んでしまいそうです。

その3 花蒔人(はなまきびと)と言う。

こちらはそのものずばり、花の種を蒔く人の意味ですね。種を蒔く、捲く、撒くと書きますね。種をまくのですから手を使って行いますので、手偏のまくが良いようにも思いますが、私、ふらぬいは”草冠(くさかんむり)に時”が風流で良いと思いますね。しかも無理矢理に花蒔人(はなまきびと)と読ませます。良い表現と思いませんか? どうでしょう。自画自賛してますね。 

そういえば、話は逸れますが、
皆さんは、フランス写実主義の農民画家ジャン・フランソワ・ミレーの有名な絵に、「晩鐘」、「落穂拾い」そして「種まく人」があるのを知っていますね。「晩鐘」と「落ち穂拾い」の絵については私、ふらぬいはパリのオルセー美術館で観賞しました。しかし「種まく人」の絵はオルセー美術館にはありませんでした。この絵は2枚あって、1枚はボストン美術館、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県立美術館に所蔵されているそうです。私はどちらも観賞したことはありません。なんで「種まく人」なんか取り上げたのとお訊きですよね。実は、この「種まく人」は、あの岩波書店のシンボルマークになっていたことをたまたま思い出してしまったのです。あの難しい岩波書店の学術書にはこの「種まく人」の絵が必ず付いていて、この書物を読めば必ずや読んだ人になんらかの実りがあると思って学習に励んだものでした。ただこちらは人文系や社会科学系統の書物が多かったがゆえ、理系の私、ふらぬいにどれだけ血になり肉になったかは定かではありませんが・・・。人間的には成長させてくれたような気がしますが・・・。

ですから、(それが結論かいなどと言わないで下さい)花蒔人(はなまきびと)を使わせていただいたのですが、説得力に欠けましたでしょうかね。

繰り返しますとですね、私、ふらぬいは昨年の10月頃、コスモスの種を住まいの裏の谷戸近くの草原(くさはら)に蒔いたのです。当時、昨年10月頃、その草原はあまりに殺風景だったのです。次の年の9月~10月にかけてこの草原が一面のコスモスの花で飾られると(私を含め)人の心も和むと考えたからです。でも、ただの草原にコスモスの花の種を蒔いただけでしたから、実際に芽を出すものかと心配していました。というよりはまったく忘れておりました。でも、この夏の暑さの中、丈の長い草に守られてかなりの数のコスモスの若茎がしっかりと育っておりました。さきほども確認してきました。今のところ、私、ふらぬい以外にはあの草原にコスモスの若茎が数多く育っていることは分からない筈です。あと1ヶ月を過ぎた頃から、私が蒔いたコスモスがさらにその茎を伸ばしその存在感を見せつけてくれると思います。もし、私が「花蒔人」として種を蒔いたコスモスが草原いっぱいに花開いた時にはもう一度、このブログで紹介しますからね。乞う、ご期待。

それで、若葉台の谷戸の草原(くさはら)にコスモスを咲かせようとの試みをしている私、ふらぬいにコスモスの「花蒔人」の役割を果たさせてくれたと理解しておりますのでこのようにブログでつぶやいてみたのです。

誰ですか、花蒔人(はなまきびと)ではなく、やはり花咲爺(はなさかじじい)じゃあないかと仰る方は・・・。

夏の日に花盗人(はなぬすびと)ならぬ、花蒔人(はなまきびと)として蒔いたコスモスが育っていました、とのつぶやきでした。

コスモスはキク科の1年草。メキシコ原産で高さ約1.5メートルにも達し、葉は線状に細裂し、秋、大形の頭花を開く。色は白・淡(薄)紅・深紅など。秋桜とも言われ季語は秋。
コスモスを唄った歌としては、山口百恵の秋桜(コスモス)、狩人(かりゅうど)のコスモス街道等の歌が有名です。
蛇足でした。失礼しました。

草原のコスモスですが、昨日業者が(雑)草刈りをしてしまいました。雑草の中でも強く逞しく育っていたコスモスですが、無惨にも雑草と一緒に刈り取られてしまいました。根の部分が残ったコスモスもありますので、これから秋にかけて咲かないとの可能性がゼロではありませんが、コスモスの開花はかなり厳しい状況になりました。(8月10日 ふらぬい記)

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