「五十六十はかえって悪しからず、恬淡清浄にしてこころは安然なり」 白居易の耳順吟をつれづれぶろぐ

「五十六十はかえって悪しからず、恬淡清浄(てんたんしょうじょう)にしてこころは安然(あんねん)なり」 白居易の耳順吟(じじゅんぎん)をつれづれぶろぐします。恬淡清浄(てんたんしょうじょう)とは心が清くやすらかで汚れがなく無欲なこと。あっさりしていて物事に執着しないことです。耳順とは論語(為政)に出てきます。60歳の異称で、修養ますます進み、聞くところ、理にかなえば何らの障害なく理解しうる意です。私、ふらぬいは現在、耳順その境地にあります。

皆さんは孔子の、五十にして「天命を知り」、六十にして「耳順(したが)う」、七十にして「心の欲する所に従って矩(のり)をこえず」の言葉はご存じですね。論語の為政にありますね。私もどこかのブログで使ったことがあります。五十「知命(ちめい)」、六十「耳順(じじゅん)」、七十「従心(じゅうしん)」のことです。
六十は「還暦(かんれき)」で、七十は「古稀(こき)」だべさ、と言う北海道出身の方も多いのではないかとは思いますがね。こちらの「還暦」、「古稀」は口語体(と言うか出自ははっきりしています)、耳順、従心は文語体(出自は論語です)というか、前者はどこの場所で使っても理解して頂けますが、後者は少し形式張った場所で使うと話に重みが増すと言われています。私も何度か使っています。

私、ふらぬいも、もうすでに孔子でいうところの「耳順」半ばにさしかかり、色々”現在過去未来”などのことを考える機会も増しているのですね。渡辺真知子さんの歌に、「現在過去未来」と始めて「迷い道くねくね」とで終わる歌がありました。確かに現在過去未来と区切るとそのようになるのですが、順番は過去、現在、未来で「耳順」の私は過去をたくさん思い出すことが多くなりました。でも、過去も忘れつつあります。何を言っているのやら・・・。

話をブログに戻します。いきなり中国、唐の時代の白居易(はくきょい)でいきますからね。

60歳を迎えた時、白居易(あざなは白楽天(はくらくてん)。772~846)は同世代の友人の崔羣(さいぐん)と劉禹錫(りゅううしゃく)に対してこう吟じたと言います。

「三十四十は五欲に動かされて迷うし、また七十八十になると百病に纏(まと)われて苦しい」そうしてみると人生における五十六十はどうだろうか。
「五十六十はかえって悪しからず、恬淡清浄にしてこころは安然なり」(五十六十はかえって悪くはない。恬淡清浄に処すことができ心は安らかだ。五十六十却不悪、恬淡清浄心安然。「白香山詩集「耳順吟」」)

あっ、ここで白居易の耳順吟をすべて引用しますね。

白居易
     耳順吟            耳順吟

  三十四十五欲牽   三十四十は五欲(ごよく)に牽(ひ)かれ
  七十八十百病纏   七十八十は百病纏(まつ)わる
  五十六十却不悪   五十六十は却(かえ)って悪(あ)しからず
  恬淡清浄心安然   恬淡  清浄  心(こころ)安然(あんぜん)たり
  已過愛貪声利後   已に愛貪(あいたん)声利(せいり)を過ぐるの後
  猶在病羸昏耄前   猶お病羸(へいるい)昏耄(こんぼう)の前に在り
  未無筋力尋山水   未だ筋力の山水を尋ぬること無くんばあらず
  尚有心情聴管絃   尚お心情の管絃を聴く有り
  間開新酒嘗数盞   間(かん)に新酒を開いて数盞(すうさん)を嘗(な)め
  酔憶旧詩吟一篇   酔いて旧詩を憶(おも)いて一篇を吟ず
  敦詩無得且相勤   敦詩(とんし)  無得(ぼうとく)  且つ相勤(すす)む
  不用嫌他耳順年   他(か)の耳順(じじゅん)の年を嫌うを用(もち)いず

 <訳>
          三十四十のころは  五欲にまどわされ
          七十八十になれば  百病にとりつかれる
          だから五十六十は  かえってよいものだ
          あっさりとして清らか  心はゆったりしている
          すでに名利の念に煩わされることもなく
          かといって病みつかれ老いぼれてもいない
          山水を尋ねる体力は残っており
          管絃に耳をかたむける情緒もある
          暇なときには  新酒の封を切って数杯を味わい
          酔いが回れば 昔の詩を想い出して吟ずる
          崔羣(さいぐん)よ 劉禹錫(りゅううしゃく)よ 酒でも飲みたまえ
          耳順の年であるからと  悲観するには及ばない


若い時代の愛欲どん欲名声利害の時期は過ぎ、老いて病や耄碌(もうろく)するにはまだ間がある。山水を尋ねる(訪ねる)元気はあるし、音楽を聴いてなごやかな気分にもなれるし、しずかに新酒を味わい酔って旧詩の一篇を吟じるのもいいではないか(「耳順吟」)とね。

私、ふらぬいはこの白居易の「耳順吟」に従い、「耳順」半ばを迎えるこの梅雨の時期、晴耕雨読の毎日でもあります。先日は台風一過、梅雨の晴れ間をぬって、静岡県御殿場で晴耕、ゴルフ場を耕してきました。そしてまた引き続く梅雨の最中、読書に励んでもおります。
まして、先日の晴耕、ゴルフのことです、終了時には仲間と一緒に、近くの居酒屋で、「一杯、一杯、また一杯」と(これは李白の”山中で幽人と対酌す”ですが)、お酒と肴を嗜んでまいりました。たまたま、昔の詩の朗読、いまでは”カラオケ”と言いますがそちらはちと行われてはおりませんでしたが、すっかり酒肴にのめりこみ、話にゴルフの花と雨の花(?)が咲いてしまいました。(これも意味不明?)

その仲間の皆が、もう「耳順」から「従心」にさしかかるも、悲観するには及ばない。人生、健康で在りさえすれば晴耕雨読の毎日をこのように送ることができる。そして、もし晴れていれば山水(ゴルフ場のことでもあります)を訪ね、管弦(カラオケのことでもあります)を演奏し、またその音色に耳を傾け、(居酒屋で)酒と肴で皆と”現在、過去、未来”を語りあおうとするのです。

この白居易の「耳順吟」はなんと、現在の私、ふらぬいをしっかと勇気づけてくれる漢詩でありまして、すっかり白居易のとりこになってしまったのです。あの、「耳順」の白居易はすでにあの皆さんご存じの「琵琶行」や「長恨歌」の世界の白居易その人ではなかったのです。

私、ふらぬいにこの先どれくらいの人生があるかはわかりませんが、「知命」から「耳順」、そして「従心」とそれらにふさわしい人生を送りたいものです。そして、耳順吟の漢詩のように大いに残りの人生を楽しもうではないかとの感じになりますね。白居易の「耳順吟」に「耳順」とはどうあるべき、人生とはどうあるべきを教えられました。

「五十六十はかえって悪しからず、恬淡清浄にしてこころは安然なり」 白居易の耳順吟をつれづれぶろぐしました。

この白居易の「耳順吟」の漢詩が書かれた背景が、どこかあの李陵と司馬遷の関係を思い出させたものですから、ブログにとりあげました。でも、ゴルフとカラオケと居酒屋でこれからの人生、大いに楽しもうとのブログにしかなりませんでしたね。失礼しました。

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