ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、さわやか

今回の、ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐは、”さわやか”です。 今回で23回目になります。團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」は第27巻の”さよなら”まで続きます。次回の24回目は”じわじわ”そして”どっこい”、”シットリ”と続きます。私のつれづれぶろぐは、團伊玖磨さんの名作、「パイプのけむり」を越えることができるのでしょうか。「越えるなどと、何をたわけたことを言っておるのか」、と厳しい言葉が飛んできます。あの、回数のことですからね。内容(コンテンツ)や品格、格調の高さなどとは言っておりませんからね・・・。では、”さわやか”ブログ、さわやかにいきたいものです。

前回の”降っても”ブログからは随分間があいてしまいました。個人的には旧浅野炭坑時代の幼少年期の手持ちの写真がそんなにあるわけではありませんので、今から55、6年前を思い出して、「ああだったはず」、「こうだったはず」、と空想にふけることの方が多いのです。でも、ブログでいつもお世話になっております、あさのQさんがご自分のブログに懐かしい浅野炭鉱の街の佇まい、人の営みの写真を数多く掲載しておりました。それで、あさのQさんがご自分のブログに掲載された写真から、私、ふらぬいが思い出したことがありましたので、つれづれぶろぐにしてみました。

今回の”さわやか”ブログは、”あさのQ”さんのブログ、「浅野写真 No.120」を拝見して、1964年4月に撮影された雨竜炭鉱選炭場、雨竜炭鉱事務所、炭鉱配給所などですが、それらを結びつけている橋の写真に引きつけられました。1964年4月撮影のその橋、その佇まいから、私のその橋に寄せる懐かしさ、思い出、感慨、それらはあさのQさんのそれらとでは少し違うのではないかと思っています。でも、久しぶりにめぐり会ったみたいで本当に嬉しかったのです。
幼少年時代に渡ったこの橋、写真と同じ橋を、1988年、昭和63年8月にも渡りました。あの時には、嬉しい思いはまったくしませんでしたからね。この橋を渡って、幼少年時代に焼き付けた浅野の街の光景、今回のブログの写真の光景です、が何も無かったのですからね。つまりこれらの建物自体何も無かったのです。それこそ、そこにあるのは思い出の故郷ではなく、人っ子一人いない廃墟、ゴーストタウン、死の町でした。(本当にそのように思いましたよ) 兄からは「お前の生まれ故郷は湖の下に沈むんだよ、その為に建物をすべて壊したんだ」そして、「ダム、農業用水用のダムができるんだ」と言われ、無理矢理納得させられたように思います。

その自分の生まれ故郷(第一の故郷です)が、”あさのQさん”のブログとその橋の写真のお陰で、少しずつ私の記憶に焼き直しができるものですから、本当に嬉しいのです。感謝しております。

それで、その私の故郷の思い出、記憶の焼き直しをしてくれた”あさのQ”さんのブログ、「浅野写真 No.120」を貼り付けます。
http://08046784.at.webry.info/201112/article_2.html
あさのQさんのブログがオリジナルですので、こちらを是非、先に目を通して頂きたいと思います。

また今回の”さわやか”ブログに、あさのQさんの写真を使わせていただきます。よろしくお願いします。

今回も沼田町浅野地域史跡図を最初に張り付けますね。「元住民かな?」さんが更新されたのが相変わらず最新版ですのでよろしくお願いします。やはりこの沼田町浅野地域史跡図が私の56年以上昔の浅野炭鉱、浅野の街と浅野炭鉱廃鉱時までの浅野の町を思い出させてくれるものですからね。

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今回はあの思い出の橋(なんという名前の橋なのかは分かりません)を中心に、その下を流れる幌新太刀別(ほろしんたちべつ)川、雨竜炭鉱の選炭場、雨竜炭鉱事務所、炭鉱配給所と病院、青年会館をめぐる(回る、廻る、巡るとも書きます)ブログです。

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この写真の橋は、沼田町浅野地域史跡図上では右手中程より少し下側にある橋です。私は大原町に住んでいた時には長兄と一緒にこの橋の近くの川で魚釣りをした記憶があります。もちろん私が魚釣りなどできる訳はなく、ただ兄の魚釣りを見ていただけと思います。川遊びはどうでしたかね。川には真っ黒い水が流れていましたから、多分、川の中には入らなかったような・・・。でも、掘田商店(昭和30年当時あったかどうかは?)近くの橋のそばでは、魚釣りとか、川遊びとかなにかはしたように思います。小学生になり友人もでき、通学、遊び等で行動範囲が広がったためでしょうか。

この写真の橋は昭和63年8月、浅野の街を最後に見た時にも渡りました。第二の故郷の上富良野町から兄、兄の嫁、母と一緒に車で浅野にやってきました。選炭場側の道路に車を停車させて、皆でこの橋を渡りました。当時、この橋に欄干があったかどうかは定かでありませんが、車は通行できませんでした。また、この写真に示す建物はすべてありませんでした。

私には、昭和30年6月以前ですが、この橋を渡った右側に古河雨竜鉱業所の事務所の建物があったことは記憶にあります。当時、私自身まだ幼少ではありましたが、この建物の前にかなり広いスペースがあったように記憶しています。また古河鉱業所の建物がこのように窮屈そうに建っていたとも記憶していませんし、こんなに道路の近くに建っていたとの記憶もありません・・・。もっと奥のほうにどっしりと建っていた? もしかしたら、写真の通りだったかも知れませんが。

写真後方奥の消防番屋については、実は存在自体まったく私の記憶にないのです。この番屋と古河鉱業所事務所の間にある坂道は私の当時の曙町の住まいに続いています。それで、この坂道はよく通りましたからね。この坂道を登っていくと、左手に何があったか? 畑かなにかでなかったのかな? 大きな建物というか気になる建物は無かったような・・・。そして、少し登った右手にはちょっとした広場、グランドらしきものがあったような・・・。
坂道の途中から右手に道路が伸びていた。その道をまっすぐ行ってつきあたりに大きな建物があった。その建物に私の男友だちがいた・・・ような気がする。彼は、色々な空き瓶の栓、ふた、キャップのきれいなものをたくさん持っていて、自慢されたことを憶えている。なんでその時にうらやましく感じたのかは今になってはわかりませんが・・・。それと、その彼と一緒に、沼田町浅野地域史跡図上に、ここに”橋があった”と記載している橋を渡って、ここに”お米の配給所があった”と書いているところに遊びに行った記憶があるのです。その橋は自動車が通行できる橋ではなかったのは確かですが・・・。すごい急な坂を降りてきて橋を渡ったような・・・。オリジナルの沼田町浅野地域史跡図に、その橋の存在すらありませんでしたから、もしかしたら橋と認められてはいなかったのかも。

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一方、配給所側の広場は確かに写真のように建物と道路の間に広いスペースがあったと記憶しています。車が出入りするためなのか、駐車場(当時は車の駐車場は必要だったのかな? そもそも走っている車を見た記憶はあまりない?)だったのかも知れません。ただ、配給所には広場の側から入ったように思うのですが、違いますかね。つまり、人の出入り口も広場の方を向いていたようで、川側には向いていなかったような? 私がいた当時は大原町の体育館(あの円屋根の建物)は無かったように思いますので、新しく道路ができたのかも知れません。ただ、私が憶えているのは、父が一時、配給所に勤めておりましたので、小さな私が配給所内を走り回って遊んだことですね。そして、配給所に勤めている方たちからは随分可愛がられたように思うのです。幼い自分だけが楽しんでいたのかも知れません。

配給所の隣りにある炭鉱病院には一度だけ母に連れていってもらいました。なんか悪戯していて自分の鼻の中になにか異物を詰め込んで、取れなくなってしまい、曙町奥の住宅から出掛けました。看護婦さんに、もういたずらしたらダメよなどと言われ、取ってもらった記憶があります。私は炭鉱病院の建物の中に入ったのです。私がこの炭鉱病院で生まれたかどうかの確認はしておりませんが・・・。私、ふらぬいの出生地、戸籍謄本に記載の沼田町幌新太刀別757番地は大原町住宅の住所と勝手に理解しているのです。大原町の住まいは炭鉱病院とは目と鼻の先でした。

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この写真は配給所の入り口に続く道路上か、または配給所の広場から撮った雨竜炭鉱選炭場の写真でしょうね。幌新太刀別川の向こうに雨竜炭鉱選炭場が見えます。選炭場の建物と川の間には留萌鉄道と鉄道に沿って道路がありました。私には当時いつも見慣れた風景だったと思います。但し、この雨竜炭鉱の名前は私が浅野に住んでいる時には使っていなかったと思います。今でも私の頭には、古河雨竜鉱業所との難しい名前が先に浮かびます。そして、それを、なつかしい浅野炭鉱と呼び変えるのです。

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この写真は、配給所側から橋を写したものですね。橋の向こうの建物は青年会館と沼田町浅野地域史跡図に記載されていますし、あさのQさんは母上と一緒にラーメンを食した思い出の建物とブログに書いています。しかしながら、私の記憶にはこの場所にこの青年会館の建物があったとの記憶はありません。もしかしたら、1955年、昭和30年以前にもあったのかもしれませんが・・・。でも、この建物(青年会館)自体を知らないのです。何故かと言いますと、私は配給所側からこの橋を渡り留萌鉄道の線路に沿って左側(昭和方面)に行った記憶がない(どうしても思い出せない)のです。橋を渡って右側(新雨竜駅方面)に行ったのもあまり多くはないのですが、まったくない訳ではないと思うのです。
しかしながら、沼田町浅野地域史跡図に追加しました、お米の配給所があった場所の近くで友人と遊んだ記憶はあるのです。その時には必ず、これも私が沼田町浅野地域史跡図に追加した橋(橋があった筈の橋)を渡って出掛けているのです。この街が何町と呼ばれたかは分かりませんが、沼田町浅野地域史跡図に示すようにこんなにたくさん建物が当時、昭和30年以前にあったとの記憶はありません。ましてこの近くに神社があったことなどまったく憶えていないのですから。

昭和30年(1955年)7月~昭和43年(1968年)10月、つまり、私が浅野炭鉱の町を離れてから浅野炭鉱閉山までに浅野の町がどのように変貌していったかは、沼田町浅野地域史跡図と住民であった皆さんに教えてもらうしかないのですが、お陰様で随分分かってきました。本当に感謝しております。

それで、沼田町浅野地域史跡図をもとに自分が思い出しながらこの浅野炭坑ブログを書いておりますが、浅野の町で私が知っている町名は、私が生まれた所と記憶してる大原町とその後引っ越ししてから住んだ山の上の曙町だけです。でも、随分ブログのコメントなどで浅野の町の名前を教えていただきました。私に取っては聞き慣れない町名ですが、住んでおられた方にとっては懐かしい町名なのでしょう。

それで、コメントを頂いた皆さんから教えて頂いた町名です。
「Kenさん」からは、台町? 大町? どちらも”だいまち”と呼ぶのでしょうが、教えていただきました。私が思いますに、これは新雨竜駅近くの商店街の町名になるのかなと考えています。ダイマチにレンバイがあったとも教えていただきましたし。
「O_oさん」からは、川沿(かわぞえ)町を教えていただきました。その後、曙町に移ったことも教えていただきました。川沿町とは幌新太刀別川沿いの町なのかな、だから通学路の、吊り橋とかお寺がある方の側というか、幌新太刀別川が流れる方かなと考えています。
「クマさん」と私、ふらぬいは生年が同じですので、浅野小学校では同級生だったかも知れません。「クマさん」は東町(あずまちょう?、ひがしまち?どのように呼ぶのかは分かりませんが)からの通学が大変だったとのコメントがありましたので、多分神社のある、私には、曙町側から降りてきて渡る橋があった、米の配給所があった、とブログで書いた場所あたりなのかなと考えています。この場所には建物がこんなに無かったと記憶していますし、まして幼かった私は、神社があったことさえ知らない。お寺の所在も知りませんでしたのでなんとも言えませんが・・。
浅野小学校、中学校近くの町名はなんと呼ばれていたのでしょうか。

私、ふらぬいにとっては、まだまだ沼田町浅野地域史跡図の余白を埋める楽しみは尽きないように思います。皆さんからのコメントで色々教えて頂き感謝しております。これからもよろしくお願いします。

旧浅野炭鉱またホロピリ湖といえば浅野炭鉱の遺跡、廃墟、または美しいホロピリ湖の風景を紹介するブログと思われている方にとっては異質のブログと思います。「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」は旧浅野炭鉱の街がこのようであった。また浅野炭鉱の街にはこのような人の営みがあったことをつれづれに紹介するブログなのです。もちろんそればかりではありませんが・・。

今回も、あさのQさんのブログの写真を使用させていただきました。あさのQさん有り難うございます。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、さわやかでした。

あさのQさん、O_oさんからコメントを頂きました。当時の浅野の町の有り様が眼に浮かんできます。本当に有り難うございます。これからもよろしくお願いします。
それで、コメントの内容から推測するのですが、O_oさんの住んでおられた曙町の奥の住居は、もしかしたら、私共、ふらぬい家が引っ越した後の住居ではないかと思っています。私の浅野炭坑ブログの第1回でお見せした写真の住宅です。私共は昭和30年6、7月頃迄住んでいましたので、引っ越した後にO_oさんのご家族が住まわれたのではないでしょうか。また、私が以前ブログに書いた池ですが、炭坑住宅の左手奥にありました。住宅前を流れる沢とはもしかしたら小さな流れで繋がっていたかも知れませんが、単独の池だったようにも思います。O_oさんのお父上が沢をせき止めて作った池は新しい別の池?だと思います。さらに、浅野小学校通学時に使っていた坂道には、前方と左右を土が流れないように木の板を渡しただけの土の階段になっていたような気がします。でもその階段は登る時だけ階段を使い、降りる時には階段を使わず走り降りたように思います。曙町から浅野市街地に行くには山を降りる道が幾通りもあったように思います。父がテニスをするときにテニスコート(多分プールが出来た側にあった?)迄ついていった道もあったような・・・。
私は昭和33年12月頃、小学校5年の時、浅野の町を訪れたことがありました。浅野炭坑ブログ”まだ”に書きました。曙町(私がかって住んでいた住宅の近く)のM本さん宅に母と一緒にでかけたのです。ものすごく雪の多い年だったと思います。それで、かって住んでいた炭鉱住宅には行きませんでした。もしかしたら、その時には、O_oさんのご家族が住んでおられたのかも知れませんね。不思議な縁(えにし)を感じます。私が思うに、M本さんは、病院の事務をなされていたか、お医者さんだったか、どこか病院に関係があったような・・、どちらに勤務されておられたかは存じておりませんが・・。M本さんのご家族とふらぬい家は、当時(昭和30年以前です)福島県楢葉町の竜田(たつた)にともに親戚があり夏休みに一緒だったことがあります。あの福島第一原発事故で避難を余儀なくされた町でもあります。今はもう親戚は住んではおりませんが。(5月3日 ふらぬい記)

この記事へのコメント

2012年04月01日 23:12
写真を使っていただきまして、ありがとうございます。

私も、選炭場の向かい側には二つの橋が架かっていたように記憶しています。あまり昭和方面へは行ったことはありませんでしたが確か、米配給所のあたりには、交番がありました。私の自転車はライトがついていなかったので、夕方にその前を通り過ぎる時に、注意されるのではと、ドキドキしながら駆け抜けたことがありました。

小中学校のあたりは、浅野第一から第五という地名でした。

今回持ってきたアルバムからは、皆さんが興味のありそうな写真は、おおかた張り付けてしまいましたが、実家にはまだたくさんありますので、今後ともよろしくお願いいたします。。
O_o
2012年04月30日 23:14
私は現在長野市に住んでいます。
浅野に住んでいたのは昭和30年ころから37年ころまでです。
(0才から7才くらいまで。妹と弟は浅野生まれです)
断片的な記憶で少々汚させてください。
父は炭鉱病院に勤務していました。
会館でラーメンを食べた記憶があります。
曙の奥の池は父が沢をせき止めて作った池のことと思います。
クラブの方で採ったザリガニをこの池に放したのは私です。
池の上流の沢に斜めにあるカエデの木に年上の子達がヒミツ基地?を作っていました。
一番奥の家に住んでいましたが裏に柳の木がありました。
スキー場は裏に向かって左の斜面の上だったような?
トイレは馬車で柄杓で汲み取っていました。
冬は馬で船型のソリを引いて道をつけていました。
釣りはプールの上流の第二ダムまで行くことがありました。
あさのQさんの交通事故は私の同学年の女の子で足を轢かれたように記憶しています。
小学校の体育館へ行く廊下の右側の外の池では亀を飼っていました。
甲羅の端に穴を空けて紐でつないでいました。
洗炭場では大人5人くらいで貨車を押して動かしていました。
映画館は私の記憶では古河会館の位置です。モスラを見た記憶があります。
マタンゴはこずかいが無くて行けなかった。
地図の通学路の坂道は階段でなかったかなぁ?階段はプール寄りの方だったかも.
大沼時計店の下の角は本屋でその並びの学校側に床屋があったと思います。
幼稚園は火事で焼けたような?
去年8月に浅野に行こうとしましたが土砂崩れで蛍の里?で引き返しました(残念)
ありがとうございました。
2012年05月01日 23:13
0_oさん
あさのQです。
昭和37年に7才ということは、私より3つお若いでしょうか。よろしくお願いいたします。
交通事故の女の子は同級生でしたか。当時、この事故は大事件でしたので、いまでもよく覚えています。あまり詳しくは書きませんでしたが、記憶されているとおりです。
小学校の体育館へ行く廊下の右側の外の池は記憶がありません。北海道の形をした池と、廊下を挟んで反対側にも池があったのでしょうか?確か廊下の右側の出口には、2mくらいの大きな木製のゴミ箱があったと思いますが。
また、よろしくお願いいたします。
hk2485
2012年06月12日 18:45
hk2485と申します。Facebookで友達探そうとして、生まれ故郷の浅野を入力したところ、「旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」あさのQさまのブログヒットしました。
懐かしく嬉しくてのコメントです。1949年8月5日浅野に生まれました。小学校の2年生の1学期まで家族と住んでいました。曙には祖父祖母、叔父叔母、従兄弟。大原町には叔母夫婦と従姉妹など親戚多数、ブログにあった大沼時計店のとなりに前川パーマ店、その隣が母のやっていた久美理容院という床屋が私の住んでいた浅野市街です。私は、古川会館でゴジラのを見ました。駅の前の映画館ニューテアトルの森下のおじさん、私の住まいの前の食堂?金星のおばさん廉売の中に住まわれていた石塚のおじさん等々、チョウ懐かしく思い出されます。小学1年の担任は、高橋ふみ先生、2年は確か白峰先生でした。あさのQさまは、私の4歳下と思います。先生が転勤していなければご存じかもとおもいます。実名の羅列でご迷惑がかかるかもしれませんがわかりやすいと思います。まずければ削除お願い致します。私には半世紀以上前の思い出です。5人姉弟の5番目なので姉たちにもいろいろ聞いてカキコさせてもらっても良いでしょうか。
いい年してはしゃぎすぎました。今後ともどうぞよろしくお願い致します。m(__)m
2012年06月12日 23:09
hk2485さま
あさのQです。よろしくお願いいたします。
hk2485さまは私より3つ年上ですね。
私は小学2年の時に浅野に来ましたので、その時は5年生ですね。浅野に残られた親戚の子なら中学校の父のことを知っているかもしれませんね。大沼時計店の並びに住まわれていたんですね。大沼さんの息子は、確か私よりも3~5つほど年上だったと思います。私の父と私の家で切手交換をしたことがありますのでよく覚えています。
高橋先生は私の小学校卒業文集にも載っています。かなり前から浅小にいらしたのですね。
また、よろしくお願いいたします。

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