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zoom RSS 円地文子訳の源氏物語を全六巻読み終えました

<<   作成日時 : 2012/02/04 12:22   >>

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円地文子の源氏物語を全六巻読み終えました。昨年の12月下旬頃から読み始め、先月、1月末でやっと円地文子訳の源氏物語全六巻(新潮文庫)を読み終えました。手広く本を読んでおりますので、”やっと”の文言に、どうにかこうにかとかかろうじての意味には使いませんよ。でも、やはり”やっと”が似つかわしいのです。全六巻、横浜市の図書館から借用して読んだものです。個人的には瀬戸内寂聴さん著になるダイジェスト版源氏物語を数年前に読んではおりましたので、まったく内容を知らない訳ではなかったのです。ですが、谷崎潤一郎版や与謝野晶子版の源氏物語では挫折を味わっておりましたので、今回こそ源氏物語読破の意気込みは”はんぱ”ではなかったですからね。きちんと全六巻、一気に読み終えたのでした。

皆さんはご存じ無いかとは思いますが、紫式部の著になる小説源氏物語は日本人として必ずや読み終えていなければいけない日本文学の基本常識それも必須の基礎知識だからなのですよ。もちろん、何故ですか? とお訊ねになりますよね。何故かと言いますとですね、日本国内では源氏物語はもともと日本人の血となり肉となっている(?)筈ですから、あまり、読んだ、読んでいない、理解している、理解していないは話題になることはありません。でも、外国に出掛けて外国の友人とひょんなことから日本文学を語ることになってしまった場合、(前提が極端と思われた方、我慢して下さい)紫式部と源氏物語は必ず話題に上ります。日本人として、もし小説源氏物語の内容を知らないと、相手の方からかなり見下した眼で見られますよ。あの、それでも問題ないと言われる方、この源氏物語の部分を飛ばしていただいても・・・。
例えば、英米人より私たちの方がシェークスピアの文学に精通していることがよくありますね。(そうでないと思われる方も我慢して下さい)不思議にもあるのですね。何故かと言いますとそれは大学受験の英語や大学の講義でシェークスピアの小説(文章)は必ずや読んで(憶えて)おり、しかも英米人以上にしっかりと、シェークスピアの文学、その基礎知識を得ているからなのです。そう言うことになると、負けず嫌いな彼ら、英米人は、止むに止まれずというより、必ずと言ってもいいくらい、紫式部と源氏物語で攻めてくるのです。
日本人は源氏物語を古文との位置づけで読んでいますね。しかも、あれだけの大作、恋愛小説とは言え、なかなか古文で全部を読む気にはならない訳です。昔、高校時代、古文の授業で、源氏物語の冒頭、桐壺帖の先頭部分「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」だけを記憶している人が大部分ですからね。源氏物語を読んだことがあると言っても、冒頭部だけ読んで、源氏物語を理解できて語れるか、しかも英語で、となると、そううまくはいかないですよね。生兵法(なまびょうほう)は怪我のもとですからね。論争に負けてしまいます。(そうではないと仰る方、少し我慢して下さいね)
シェークスピアの文学でなら英米人との論争に勝てるのに、日本の古典、源氏物語では日本人は英米人との論争に負けてしまう? なぜかと言いますと、彼ら、英米人にとってシェークスピアは、日本人が源氏物語に抱くのと同じ感覚で、英文学の古文な訳ですね。だから彼らのシェークスピアの知識には落とし穴が多くある訳なのです。しかしながら、それが翻訳文ですと現代の言葉に訳されている訳ですから、抵抗無く読み進めることができるのです。それで、英米人と文学論を戦わせる時には、日本人はシェークスピアを話題にすべきであって、源氏物語で文学論を展開、戦わせてはいけないと言うことになるのです。(そうかなぁ? と思われた方、もう少しでしからね)
さらに日本文学で英米人と文学論争を行う場合、川端康成か三島由紀夫の文学作品が良いと私は思いますね。大江健三郎や村上春樹の作品ではもしかしたら太刀打ち出来ないかも知れないのです。何故ってお訊ねですか? それは、私、ふらぬいが、川端康成や三島由紀夫の作品はほとんど読んでいますが、大江健三郎や村上春樹の作品をあまり読んでいない。どちらも数冊しか読んでいないからです。それで勝てないのかなと・・・。村上春樹がノーベル文学賞の候補でいてくれる間になんとか彼の作品をできるだけ多く読破したいとは考えていますよ。村上春樹がノーベル文学賞を受賞したときに彼の本を読んでいないこと分かったら、日本の企業戦士、なんら恐れるに足らずなんてことになりかねませんよ。文学論で企業競争? 企業戦士が文学論? なんたるこっちゃ、との声も聞こえてきますね。
あの、やっぱり源氏物語のお話、ご存じで無かったですか? そうでしょうね。だって、私、ふらぬいが勝手に英米人の企業戦士に戦いを挑んで、やはり負けてしまったのが本当の話でした。失礼しました。なんで英米人の企業戦士、あの方たちは、シェークスピアばかりでなく、源氏物語をも読んでいたのでしょうかね。というのは、源氏物語は英語翻訳されており、そこからさらに各国語に翻訳され海外のかなりの知識人が世界最古の小説、源氏物語を読んでいるからなのです。外国の企業戦士との戦場で、源氏物語に関する戦いを仕掛けられたら、源氏物語の母国の日本人としてきちんと受けて立ち、しかも粛々と戦わなければいけないのです。私、ふらぬいは、確かに大学入試に供え、受験に役立つ源氏物語、受験参考書古文で得た源氏物語の知識はそれなりに持っていましたので、場を繋ぐには問題はなかったのですが、やはり全巻読んでおくべきだったと気にかかってはいたからなのです。あの、戦いの場ではもちろん英語が使われましたよ。そこんところでも拙かったのかもですけどね。英会話力も英米人に負けないようにしっかりおさえていて下さいね。

相変わらず話が別のところに行ってしまいそうですので、源氏物語のブログに戻しますね。

皆さんは紫式部の「源氏物語」が世界最古の長編小説、恋愛小説であることは、もちろんご存じですね。でも、世界最古の小説は、古代ローマ時代、紀元1世紀頃の諷刺小説「サチュリコン」(ペトロヌス著)になるのだそうです。私は読んだことはありませんが、岩波文庫にはあるそうです。また、日本最古の小説と言えば、皆さんご存じの「竹取物語」ですよね。こちらの方が源氏物語より古いと言われていますが、作者不詳なのですね。さらに、原本は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳(ごこうげん)天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が「竹取物語」の最古の本とも言われていますので、完本「竹取物語」は安土桃山時代まで待たないといけないのです。それじゃあ、日本最古の本とはちと認められないのだそうです。ただ、万葉集などには、「竹取物語」の登場人物である”竹取の翁”を歌ったと思われるものもあり、返す返すも、作者不詳、原本が無いのが残念なのですね。ですから、日本の誇る「源氏物語」を日本最古、世界最古の長編恋愛小説との位置づけで、なんら遠慮することはありません。でも、あの、源氏物語の小説の中に、「住吉物語」や「宇津保物語」が出てきます。ではこれらの物語はどのような位置づけになるのでしょう。自問自答するのですが、申し訳ありません。私、ふらぬいが不勉強で、調査が出来ておりません。

そんな経緯を述べるまでもなく、紫式部の手になる源氏物語は日本人として、きちんと読書し、内容を理解し、それなりにどなたとも話が出きるようにしておくべき基本的な文学知識なのです。日本国で、また世界でも最古の小説の位置づけですから、たとえ、私、ふらぬいがいくら企業戦士でかつ理系の博識(?)な工学士とあるとは言え、外国の企業戦士、工学士であろうが理学士、はたまた博士の相手から源氏物語を読んでの戦いを挑まれた場合、受けて立つしかなかったからです。それで、戦ってみて、貴方はどうだったの? とお訊ねですか。源氏物語の戦いで負けはしなかったとは思いますが、シェークスピアでも勝てなかったのですね。受験英語のシェ−クスピア、大学の講義で戦う文学論の戦いではやはり、生兵法(なまびょうほう)だったのですね。それで、「生兵法は大怪我の基」をやらかしてしまったのです。少しばかりの知識でもって、軽々しく事を行ってはいけないことですね。でも、相手の英米人もシェークスピア文学は私と同程度で、あまりよく知らなかったらしく、痛み分けだったような・・・。

それで、今頃になってやっと円地文子の翻訳を全巻読み切った訳なのです。でも、なんか円地文子著の小説、源氏物語の感じがしましたね。古文のそれなりに理解していた知識では決して得られない、思いがけない(?)危険な(?)場面もありましたしね。やはり大人の恋愛小説、文学でした。

それで、源氏物語巻一から巻六ですが、以下の通りになっています。

源氏物語巻一 桐壺〜葵の9帖
源氏物語巻二 賢木〜槿の11帖
源氏物語巻三 乙女〜藤裏葉の13帖
源氏物語巻四 若菜上〜雲隠の9帖
源氏物語巻五 匂宮〜宿木の8帖
源氏物語巻六 東屋〜夢浮橋の5帖

巻四の雲隠(くもがくれ)帖で光源氏が亡くなるのですが、まったく記述が無かったのです。巻五匂宮以降の匂宮から竹河の三帖は匂宮、橋姫から夢浮橋の宇治十帖は薫の君が主役でお話が発展するのですが、薫の君は光源氏の御子ではなく、女三の宮と柏木(光源氏の友人の子息)の御子との記述も興味深い(?)ものがありました。源氏の君や薫の君を取り巻く女たちの愛と哀しみをあわせて描く壮大なドラマでしたね。紫式部の原作になる訳ですが、現代語に翻訳してしまうと円地文子の源氏物語だったのだとも思いますね。谷崎潤一郎、与謝野晶子、田辺聖子、瀬戸内寂聴の手(翻訳)になる源氏物語もありますが、まず円地源氏を読み終えて、大作を読み切ったとなぜかほっとしているのです。一仕事終えたように思えるのです。宮廷文学ですから小説の舞台としてほとんどが宮廷内の狭い舞台で演じられる物語であったことかですね。庶民の生活についてはほんの少ししか書かれておりません、と言うより殆ど書かれていませんでしたからね。しかしながら、源氏物語絵巻などから小説の舞台裏、舞台背景を知ることができて、当時の宮廷生活が偲ばれて本当に全巻読んで良かったと思いますね。
読んでいてかなり戸惑ったのは、光源氏の君ばかりではないのですが、登場人物の呼称がどんどん変わっていくのには驚きましたし、まいりましたね。登場人物にとっては、確かに数年経過すると官位、役職は変わりますし、また出世もしますから、それに応じて呼び方が変わるのですね。さらに住んでいるところ(居住場所)が変わると、場合によってはそれで呼び名も変わるのです。ですから帖の最初にある登場人物、呼称さらに関係図をめくりながらの読書でした。登場人物が少ない場合は問題ないのですが、大勢登場して、入り組んでくると、頭から読み直しなんて何回も行いました。大学受験参考書で記憶のあった個所が出てくると嬉しい気分になりました。いつかまた再読の機会はあると考えていますが、光源氏が亡くなった雲隠帖の部分と、匂宮、紅梅、竹河の匂宮3帖と薫の君の宇治10帖が橋姫〜夢浮橋帖で終わりますが、かなり気になる終わり方でもありました。これで終わりなのかと・・・。読み応えは確かにあったというのが実感ですね。さらにもう一度、二度と読む必要があるように思いますね。

でも、源氏物語だけではありませんが、このような名作、大作を読み終えると、どこか「やったぁ」との達成感がありますね。これだけの大作を書くのに、紫式部はどれだけご苦労されたろうとか、以前書いてしまった内容と途中や後半で矛盾はないのかとか、そんなこと心配になりましたね。さらに、紫式部の時代の教養書、中国の古典や漢詩、日本の古典、和歌などの知識も必要でしたからね。現代みたいに辞書は無かったでしょうからね。あったのかな? つまらないことあれこれ心配もしてしまいました。 

昨年は、東日本震災、福島原発事故などがあって自分がかなり内向きになってしまったのか、ずいぶん本を読みました。坂の上の雲(司馬遼太郎)、夜明け前(島崎藤村)、暗夜行路(志賀直哉)もきちんと読みました。海外物は思い出すのが困難なくらい多く読んだのですが、罪と罰(ドストエフスキー)、嵐が丘(エミリイブロンテ)、ジェーン・エア(シャーロット・ブロンテ)、ロビンソンクルーソー(デフォー)、八十日間世界一周(ジュール・ヴェルヌ)、ガリヴァ旅行記(スウィフト)その他多数ですね。海外文学になんら一貫性がみられないのは、思いつきで読んでいる・・・。

その中で、坂の上の雲(司馬遼太郎)、夜明け前(島崎藤村)は私のブログでも少し使いました。「敵中横断三百里」と「帷子(からびら)川源流」のブログでした。もちろん憶えていませんよね。

個人的に思いがけなくも感動してしまった本が、夜明け前(島崎藤村)でした。分厚い本ですが、読み始めて、この本にかかりきりになり、そして一気に読了しました。この頃、夜明け前を声を出して読むとのイベントがここかしこで行われていますね。何故かと考えていたのですが、島崎藤村の文章自体、素晴らしいものがありました。私はやはり、「木曽路はすべて山の中である〜」の冒頭部分は本当に素晴らしく確かに強烈に印象に残っていますし、忘れられない文章ですね。私は高校時代に出会ったこの冒頭の文章だけを基に、木曽路を旅したものでした。夜明け前(島崎藤村)の内容などまったく知らなかったのです。社会人になって始めての夏休み、”ここから南、木曽路”の標識から、”ここから北、木曽路”の標識までを歩きました。当時、私の頭には、「木曽路はすべて山の中」の文言しかありませんでした。馬籠宿、妻篭宿通過は憶えていますが、その時には島崎藤村は頭に無かったように思います。あの当時は、40年前です、お金をかけずに歩いて旅の醍醐味を味わったものでしたね。当時、実際にこの小説「夜明け前」を読み終えていたら、また違った感慨に浸ったもったのでしょうか。でも、読んでおくべきだったと反省しきりの今回の読後感でした。昔の木曽路行きの写真を見ながらそのように思っています。それで、今、木曽路を通して歩こうとはゆめゆめ思いませんがね。車でなら可などと言いますと、それじゃあ、島崎藤村の小説「夜明け前」の世界には浸れないでしょうと言われますね。

「夜明け前」(島崎藤村)はもう古典の域に入る文学作品なのでしょうか。明治維新の出来事については司馬遼太郎始め多くの著者の本により描かれていますね。しかしながら、登場人物は武士とか朝廷の著名人かそれらに関係する家族の生活に限られますね。ですから、武家(武士とか大奥)社会の都合、貴族社会(宮廷)の都合とかが主題ですね。つまり上流階級(?)の生き様が主たる内容です。そして、ずっと翻弄され続ける側の庶民、その生活についてはほとんど書かれていませんでしたね。たとえ書かれていても主役の家族ばかりですから、庶民の部分は本当に光があたらないか少ないのです。あの、司馬遼太郎の世界、血湧き肉踊る(?)場面は、庶民の生活を題材にして描くことは無理だったかも知れませんでしたからね。

その中でも島崎藤村の「夜明け前」は明治維新の街道宿場の青山半蔵の生涯、庶民の生活に視点をあてて描ききって小説にしている訳なのです。幕末の激動期、木曾山中の庄屋に生まれた青山半蔵は、国学を修め、天皇親政・民意の尊重をうたう明治維新を支持する。木曾山村の庶民にとって死活問題であった、山林の民間利用のために奔走するが、新政府の政策は半蔵にとって幻滅以外の何ものでもなかった。結末は半蔵の発狂と死、悲劇的なもので終わるのです。
それで、「明治維新という裏切られた革命に翻弄された」、「新しい日本で必要とされるものは何かを見抜けなかった」、「庶民にとって明治維新なんか革命でも改革でもなかった」、「政権交代しただけで庶民の生活はなんら変わらなかった」のです。それで、相変わらずの「夜明け前」状態が継続するとね。現在の日本、政権交代後の日本にも当てはまりますね。まして東日本大震災や福島第一原発事故の被災者のことを考えると、政治家や官僚が自分のことで精一杯・・・。違いますか、失礼。
でも、木曽路の入り口である馬籠宿を舞台に街道を往来する人々の情報をもとに奔走する主人公、青山半蔵。彼の考えが生き生きと伝わってくるのは、その背景にある木曽路の四季折々の自然が描かれているからですね。人間だけを主題にしている小説と違い、木曽路の自然もまた人間と同じく主人公の一人として生き生きと描かれていました。それがこの小説をして読者を惹きつけ、古典との位置づけを維持しているのではないかと思いますね。
島崎藤村の「夜明け前」は読んで得した感じがするのです。

「源氏物語」は自分の自己啓発に必要な小説であり、「夜明け前」は読んで得をしたとの感じがしました。でも、人それぞれですからね。人生いろいろ、男も女もいろいろです。(島倉千代子さんの言葉ではなく、小泉元首相の言葉です) 読んだ時代、時期によっても違うと思います。私は定年後だから、このように感じたのかも・・・。
世の中で認められた名作って、読むと必ず何か良いことがあります。名作を読みますと、何か良いことが得られますよ、とのブログだったのですが、そう取ってくれるかどうか・・・。

円地文子訳の源氏物語を全六巻読み終えましたとのブログでした。

蛇足になりますが、まったく読まなくなった本というか、まったく勉強しなくなってしまったのが、IT関連、通信技術関連書物ならびにビジネス関連書物ですね。確かにもうすでに断捨離してしまいましたので、本棚にもほとんど残っておりません。文学書が少しずつ本棚に戻ってきているのですが、まもなく何度目かの断捨離が行われる予定です。でも、文学書が年代を超えて残ると言うのは分かりますね。昔読んだIT関連、通信技術関連書物、ビジネス関連書物なんて、今じゃあ使い物にならない? と言うことは、私、ふらぬいも使い物にならない? 忸怩たるものがあります。

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