ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、明けても

今回の、ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐは、”明けても”です。今回で、19回目になります。團伊玖磨さんの名作「パイプのけむり」、このあとは、”暮れても”です。そして、”晴れても”、”降っても”と続きます。

前回、18回目の”よもすがら”ブログに、「元住民?かな」さんから、新たに、コメントを頂きました。前回のブログで紹介した、沼田町浅野地域史跡図をさらに更新していただきました。それで、前回同様、「元住民?かな」さんのコメントを引用して紹介させていただきます。

--引用開始


http://pitamo.jp/photo/view/dc4feb2f58874134f0da000306aa9a1e/1922983

第2弾 商店街を少し更新しました。
編集に不慣れのため小刻みに更新となり、
すいません。 ちなみに、わが家は 床屋でした。
私の小学校入学に合わせての引越しだったようです。
炭鉱の閉山、鉄道の廃線後、ダムに沈むまでの何年間は祖父母がぎりぎりまで住んでいて、夏休みに何度か遊びに行った思い出があります。人が住んでる家がまばらで、寂しい風景でしたね。
小学校跡地あたりから沼田までバス出ていて沼田農協に買出しにいきましたね。後、深川駅のウロコ団子かな!

現在は、札幌在住、息子&孫各2人東区に居ます。」

--引用終わり

小刻み更新、全然問題ありません。情報公開と言うか、沼田町浅野地域史跡図の更新を、私、ふらぬいを始め、旧浅野炭鉱をふるさとする皆さんが期待しているのですからね。

「元住民?かな」さんの、コメントの中のURLですが、何故か、アクセス出来なくなってしまいましたので、私がアクセス出来るURLに書き換えました。こちらだと、私もアクセスできますので、あしからず。

それで、いつものように、「元住民?かな」さんの沼田町浅野地域史跡図の改版版を私のブログにも張り付けます。

画像


浅野の町の商店街の様子がさらに詳しくなりました。本当に、有り難うございます。

私が浅野小学校入学時に記念写真を撮った(と思っています)写真館が、まだ在ったみたいですね。通学路側に在ったと言うことだけは、私の記憶と合っていたようですが、場所が少し違っていましたね。でも、新雨竜駅を降りて、母と一緒に通り抜けたのは、こちら側の商店街の通りのように思います。アーケード商店街は、多分、私が浅野を離れた昭和30年頃には無かったような気がします。昭和30年以降に出来たのではないかと思います。そうすると、あの紅孔雀、笛吹童子の時代劇を観た映画館、浅野会館の在った場所が私の記憶の場所とは違うんですね。でも、浅野の商店街の賑わいが再現?、復元?されて、嬉しい気分になりました。すばらしいことです。

「元住民?かな」さんの御祖父母殿は、炭鉱閉山、鉄道廃線後、ダムに浅野の町が沈むまでの何年間かは、住んでおられたこと伺いまして、本当に最後の最後に、浅野の町を離れた方の想いはいかばかりだったかと考えてしまいますね。本当に寂しい想いをされたことと思いますね。もしかしたら、私が浅野の町を訪れた、昭和63年8月にも、浅野の町、商店街方面のどこかに、住んでおられた方がいたのでしょうか。そんなことまで考えてしまいます。でも、それは無理と言うもののように思いますね。当時、浅野の町は本当に廃墟そのものとしか見えませんでしたから。

また、「あさのQ」さんからも、”よもすがら”ブログにコメントをいただきました。「元住民?かな」さんの沼田町浅野地域史跡図の改版版を見てのコメントです。引用して貼り付けますね。

--引用開始

「アーケードの床屋は、菅原床屋ですね。(商店なので実名で書きました。)床屋の斜め向かいは板金屋(煙突屋)でした。ブリキにはハンダ付けできないはずなのに、石鹸受けにハンダ付けしているのが、不思議で眺めていました。ブリキの直角曲げを教えてもらったような気がします。通学路からのアーケード入り口に本屋がありましたね。当時は「少年」と「週刊サンデー」を定期的にとっていましたが、その店でマンガを読んだ記憶はありません。大人の本の表紙を、遠目でながめていました。
ラジオ店は、T字路を右に曲がった方でしたでしょうか?私の記憶では、左折して大沼時計店の付近だったように思いますが?複数あったのかもしれませんね。
T字路の突き当たりには、そろばん塾がありました。ほとんどの野球仲間が習っていましたので、その時間になると、大原のグランドからみんなで出かけました。私は習っていませんでしたので、塾の前で自転車をこいで終わるまで待っていました。終わったらまた野球。のどかな時間を過ごしていましたね。」

--引用終わり

私にとっては、大原グランドしか分かりませんが、「あさのQ」さんのコメントからは、子供の眼で見た浅野の町の商店街の様子が浮かび上がって来るように思いました。浅野炭鉱の町には、いつも仲の良い友達との楽しい時間があったということですね。

私が思い出すのは、我が家があった、曙町の山に分け入って遊び回ったことばかりなのです。でも、誰と遊んだのだろう? そちらの記憶は定かではないのです。

前回の”よもすがら”ブログでは、神社、寺社があった(見つかった)ことから、浅野の町のお祭りのことを勝手に書いてしまいましたが、浅野炭坑の町は浅野炭鉱閉山前、昭和35年~40年過ぎ迄は、まだまだ賑やかな町だったように思いますね。少しそのような賑わいに浸らせていただきました。

昭和35年頃から始まる日本の高度成長期が、日本国のエネルギー政策の転換期にあたり、石炭から石油へ大転換の時期でもあったのでしたね。日本国中の、炭鉱、ヤマが消えたとか、多くの炭鉱町のふるさとが消えた時期でもありました。一般的には、高度成長とエネルギー革命がセットであり、炭鉱をふるさとに持つ人には、やむを得ないと肯定的に捉えつつも、一方では感傷的に捉えるのですがね。まだしも、ふるさとの町が現存、と言うか存在していれば良いのですが、浅野炭鉱の町に至っては、町そのものまでも、沼田ダムのホロピリ湖の底に沈めてしまったのですからね。またまた、書いても詮無きこと、無駄なことを、書いてしまいました。

私は、今でも、旧浅野炭鉱の唯一残っている廃墟、選炭場跡の写真を見るのがあまり好きではありません。その遺跡は、旧浅野炭鉱の町の賑わいを思い出させるものでは無いからです。それよりも、沼田町浅野地域史跡図を見ながら、そして、当時の浅野の町の賑わいを感じながら、浅野の街を歩いている自分を考える方が楽しいのです。

「元住民?かな」さん、「あさのQ」さん、コメント有り難うございます。またMKさんの写真も浅野炭鉱の町、街並みを思い起こさせてくれますね。浅野をふるさととする皆さんに、本当に感謝しています。

これからもよろしくお願いします。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、明けても でした。

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この記事へのコメント

O_o
2011年08月11日 13:21
...曙の一番奥に住んでいました。(その前は川沿)
懐かしかったです。

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