宮内庁、応神陵古墳への立ち入り許可をつれづれぶろぐ

つい先日ですが、朝日新聞、読売新聞は、「宮内庁、応神(おうじん)陵古墳への立ち入り許可」の見出しで、天皇陵古墳への立ち入りが宮内庁によって許可されたと報じていました。応神(おうじん)天皇はあの倭の五王のお一人と目されている天皇ですから、これは日本の古代史、歴史の空白を埋めるなんらかの発見が期待されるのではと、私は考えました。でも、立ち入るのはどこまでかが分かり、日本の古代史に光があたり(日が昇り)、歴史の夜明けがやってくるにはまだまだ遠いと、その期待が大きく裏切られたブログなのです。
それでは、私のブログを読んでもどうってことないと考えられた読者の皆さん、そんなことは無いかも知れません、とは思いますが。では、いきますよ。

朝日新聞、読売新聞記事の概略、と言っても、内容はほぼ同じです、は次の通りです。

「宮内庁は2月17日、第15代応神(おうじん)天皇の陵墓に指定している応神陵(誉田御廟山〈こんだごびょうやま〉)古墳(大阪府羽曳野市)への立ち入り調査を、日本考古学協会など考古・歴史系16学会に許可すると発表した。2月24日に実施される。学術調査の要望に応え、宮内庁では2008年の五社神(ごさし)古墳(神功(じんぐう)皇后陵)(奈良市)から年1回の調査を許可してきたが、古代天皇陵への立ち入りを認めたのは初めてである。応神陵古墳は5世紀前半の前方後円墳。墳丘は全長約425メートルで、仁徳陵古墳(堺市)に次ぐ第2位の規模。
今回、調査が許可されたのは、墳丘本体を巡る濠(ほり)を取り囲む内堤部分。市教委などの資料によると、墳丘と内堤・外堤は葺(ふ)き石で覆われ、円筒埴輪(はにわ)列が配置されていたらしい。立ち入り調査で発掘や採集はできないが、推定約2.2キロの内堤を歩いて一周し、形状などを観察する。墳丘本体の立ち入りは「濠を渡るための安全性が確保できていない」として認められなかった。
被葬者とされる応神天皇は実在が濃厚な大王とされる。いわゆる河内王朝の始祖とみる説もある。
古代学研究会の今尾文昭・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員は「倭の五王の一人として有力な古墳を調査できる意義は大きい」とし、墳丘本体への立ち入りについても「粘り強く求めていきたい」と話している。宮内庁書陵部の福尾正彦・陵墓調査官は「安全の確保が確認できれば墳丘への許可も検討したい」としている」、とのことです。

この内容の両新聞社の新聞記事を読んで、本当にがっかりしましたね。新聞社が悪い訳ではありませんよ。

さらに、
「立ち入りは墳丘ではなく、濠(ほり)の外側の内堤(ないてい)のみ。日本考古学協会など考古・歴史系16学会の研究者が全周約2・2キロを歩き、現状を観察する。発掘や遺物の採集は行わない。それは、墳丘本体の立ち入りは「濠を渡るための安全性が確保できていない」から」、とのことでもあります。

ですから、外周散策、2.2キロ、墳丘を遠くから眺めるとのことですね。このことを、宮内庁が「応神陵古墳への立ち入り許可」したことなのですかね。しかも、墳丘本体の立ち入りは、「濠を渡るための安全性が確保できていない」からとは、あきれてものが言えませんね。と言うことは、今まで、応神陵古墳の外周散策もできなかったということ、と考えてしまいますね。宮内庁のお役人さんの、「寄らしむべし、知らしむべからず」、を地で行っていますね。そうかな?

では、何のための学術調査なのでしょうか。学術調査報告書の完成が待たれますか? そんなことはありませんね。しかも、できあがった調査報告書はどのような価値があるのでしょうか。歴史的価値ではなく、歴史散歩としての文学的価値なのでしょうか? 歴史的価値、あの倭の五王のこと、を期待して待っていても期待にそえないかも。もしかしたら、時間とお金の浪費で何も成果がないかも、と思ってしまいますが、どうなのでしょうか。新聞はそこまで踏み込んでは報じてはおりませんでした。小生、失礼なことを述べてしまいましたかも・・・。
もちろん、応神陵古墳への立ち入り調査実施が、今まで不明確であった日本の古代史に光をあて、日本の歴史における大きな進展、成果を期待しているのは確かですよ。

それで、振り上げてしまった拳?を、おろせなくなりましたので、「宮内庁、応神陵古墳への立ち入り許可」をつれづれぶろぐします。

この、朝日、読売の新聞記事の応神陵古墳は応神(おうじん)天皇の陵墓のことですから、あの、倭の五王、「宋書」倭国伝に出て来る、正体不明(?)の五人の倭王のお一人、応神天皇に想いを馳せます。

皆さんは、西暦239年、邪馬台国の卑弥呼が中国の魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬を授かったことを日本史で学びましたよね。その後、170年以上も日本は中国の歴史書に出てくることはなかったのです。次に出てくるのは、「宋書」倭国伝の倭の五王としてなのです。

倭の五王とは、「宋書」倭国伝など、中国の歴史書に記される倭(わ)(日本の古い呼び名)の5人の王のことです。「宋書」では倭の王を、讃(さん)、珍(ちん、弥(み)とも言う)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の名で中国風に書き表していて、西暦413年から478年の間、中国の南朝の宋に何度か使いを送っていることが記されています。讃は応神(おうじん)、あるいは仁徳(にんとく)、履中(りちゅう)のいずれかに、珍は仁徳、または反正(はんせい)、済は履中、または允恭(いんぎょう)、興は允恭、または安康(あんこう)、武は雄略(ゆうりゃく)の各天皇にあたると考えられています。というか、はっきり分かっていませんと言っています。

少し、「宋書」倭国伝にどのようなことが書かれていたかを整理してみますね。

西暦413年、倭国王讃が東晋・安帝に貢ぎ物を献ず。-----応神(仁徳)(履中)天皇に該当。
西暦421年、讃、宋に朝献し、武帝から官位を授かる。-----応神(仁徳)(履中)天皇に該当。
西暦425年、讃、司馬曹達を遣わして、宋の文帝に貢物を献ずる。-----応神(仁徳)(履中)天皇に該当。
西暦438年、讃が死に、弟の珍(あるいは弥)が跡を継ぎます。-----仁徳(反正)天皇に該当。
西暦443年、倭国王済が宋に使いを送ります。-----履中(允恭)天皇に該当。
西暦451年、済は死に、跡継ぎの興が使いを送ります。-----允恭(安康)天皇に該当。
西暦462年、世子興、安東将軍、倭国王に任ぜられる。-----允恭(安康) 天皇に該当。
西暦477年、興が死に、弟の武が立ち、倭国王となります。-----雄略天皇に該当。
西暦478年、武は宋に倭国王と認められます。-----雄略天皇に該当。

このようなことが「宋書」倭国伝から読みとれるのだそうです。----○○天皇は、私が整理したものです。色々な文献から集めてきたもので、整理になってはいませんが・・・。また、「古事記」、「日本書記」ともに、天皇が宋に朝献したことには触れていないのです。さらに「古事記」、「日本書記」ともに、天皇の在位も確実なものでは無くて、はっきりしてはないのです。

それで、私が以前、ブログで使いました、あの「もういちど読む山川日本史」は、倭の五王、これは大和の王であろうと記述しています。ただ、武だけは雄略天皇と肯定的に記述しています。つまり、はっきり分からないので、日本史の教科書として、仕方がないからこのような記述になってしまうのです。日本の歴史、もっとしっかりせよ、と山川出版社を激励したくもなりますね。

それで、応神陵古墳とはどのようなものか、正式には誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)のホームページを参考に貼り付けます。

羽曳野市ホームページ>市内遺跡の紹介>古墳時代 中期>誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)のホームページ
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/chuki/t_c_oujin.html
応神天皇陵古墳のページはこちらです
http://www.city.habikino.lg.jp/10kakuka/34shakaikyoiku/03bunkazai/04isekishokai/04chuki/t_c_oujin.html

今回の応神陵古墳である誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)の記述があります。

ついでで申し訳ないのですが、仁徳陵古墳のホームページも貼り付けます。

堺市ホームページ>堺市博物館>仁徳古墳百科のホームページ
http://www.city.sakai.lg.jp/hakubutu/ninhya.html
仁徳陵古墳のページはこちらです
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html

なんでこの仁徳陵古墳を持ち出したかと言いますと、この古墳は、私が中学、高校では仁徳天皇陵と学びました。前方後円墳の代表的なものであり、古墳の遺跡紹介には必ずでてくるものでした。今では、大仙陵(だいせんりょう)古墳(伝仁徳天皇陵古墳)になっていて、名称が変更になっていますね。何故かと言いますと、宮内庁が「仁徳天皇陵」と名付けた古墳の製造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されています。「古事記」では、仁徳天皇が5世紀前半に没したと解釈できることから、学問上の疑義が生じ、今では大仙陵古墳の名称で呼ばれるようになっています。

それで、何を言いたいかと言いますと、日本の歴史、特に日本の古代史があまりにも不正確ではありませんかということです。それは、当時日本に文字が無かったこともありますが、歴史的遺産、陵墓、古墳の調査がいまなお手つかずで出来ていないのが原因と思うのです。「古事記」、「日本書記」といった、日本の歴史の手掛かり書物にしろ、確証をきちんと精査しないと、このまま歴史書としては使えないのではないかと思います。神話を全て否定するつもりもありませんし、なんらかの確証が得られれば、そこから歴史の検証はできます。そうすれば、日本の古代史はもっともっと明らかになってくると思われます。
いつまでたっても、日本古代史がこのように不明確なのは、物的証拠がないからです。それには、しかるべく古墳、遺跡を発掘して確証を探し求めるしかありません。

今回の宮内庁の応神陵古墳への立ち入り許可がきっかけになって、天皇陵と言われる陵墓、古墳を調査させていただければ、もっともっと日本の古代史に光があたり、いろいろなことがわかってくると思いますね。期待しています。

あの、もちろん、当時の中国は文化国家であり、先進国でもありました。ですから、中国の歴史書が、当時後進国であって、まして文字すらもたない日本の歴史、本当はもちろん中国の歴史です、を記録することができたのでありましょう。日本は今でも、あの卑弥呼の時代から倭の五王の時代まで、どのような国であったかさえ分からないのです。邪馬台国が大和に移動していった時期であるとの学者の説もありますが、それすらも確証が無く、はっきりわからないのですね。ですから、今回の応神陵古墳の立ち入り調査が、はっきりしない日本の歴史に光を照らすきっかけになるかも知れないのです。次回以降に天皇陵と云われる、陵墓、古墳の本格的な立ち入り調査が可能になることを願ってやみません。

よくよく考えてみると、昨年秋に発生した、あの忌まわしい尖閣諸島沖事件のビデオ公開のように、日本国は誰かが犠牲的精神で情報公開しないかぎり、日本の古代の歴史が分からないということのようですね。本当に、昔も今も日本国はぜんぜん変わっていないということなのでしょうかね。

宮内庁のお役人は誰のためにあるのかですね。もちろん誰のためかは分かってますよ。そして誰のために役にはたっていないということですね。これ以上は書きませんが、ここにも、”チェンジ”が必要かも知れませんね。

宮内庁、応神陵古墳への立ち入り許可をつれづれぶろぐしました。

あの、宮内庁さん、もっと日本史の確証探しに協力をお願いしますというブログでした。失礼しました。




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