ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、またして

今回の、ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐは”またして”です。今回で14回目になりますね。團 伊玖磨さんの「パイプのけむり」は27巻までありましたから、ちょうど中間を過ぎましたね。次回は、”さて”、さらに”さてさて”と続きます。くどいですね、失礼。

前回の”なおかつ”ブログには、Qさん、Kenさんから2回ずつコメントを頂きました。有り難うございます。MKさんの写真を公開させて頂いて、浅野の町の点と線が少し繋がりましたね。浅野を故郷とする者にとって、この風景、見たことがある、また、あったあった、と思い出に浸ると同時にもう一つの宝物を掘り出した気持ちになります。

私にとっては、相変わらず、公衆浴場、銭湯の位置は記憶の外なのです。なんと言いましても、私の浅野時代は生まれてから7歳まで、昭和30年迄ですからね。Qさん、Kenさんの時代は浅野炭鉱閉山前ですから昭和40~43年頃ぎまでありますね。その時には、私が浅野を離れて10~13年も経っていますからね。そんなエクスキューズより、浅野のことを考えていない時期が長かったのが問題だったのですね。反省しています。記憶の中では私の通学路のイメージもあやしいところがあります。通学路の両側がどうだったか思い出せないところもありますから。私の記憶で一番違っているのは、新雨竜駅の位置でした。私は新雨竜駅を出て真っ直ぐ行ったところが、駅前通りで、一番賑やかな商店街との記憶がありました。もしかしたら、駅前を右に進んで、最初の通りの商店街を通行していたのではと思うようになりました。それとも、もっと右側かなと。駅前の商店街を抜けて右折し、あのT字路を左折するまでの距離が非常に近かったように思っていました。沼田町浅野地域史跡図では自分が思ったよりかなり遠かったのです。そして、これも記憶が合っているか不安なのですが、駅前の商店街を抜け左手すぐ、通学路の通りに、私が浅野小学校入学の記念写真を撮ってもらった写真館があったと記憶しています。写真館の名前は憶えていません。写真館の店の構えを何故か憶えているのです。でも、違うかな、多分、昭和29年のことですから。10年も過ぎたら写真館も無くなっていたかもしれませんね。

それで、今回も前回の”なおかつ”ブログに頂いたコメントをブログに使わせて頂きます。Qさん、Kenさんよろしくお願いします。

それで、まず、Qさんの11/27コメント①を引用させて頂きます。

「とても懐かしく拝見しました。
小学校を撮影した手前の100mほどの所に、教員住宅の私の家がありました。写真左手前にあった校長住宅は、すでに取り壊されていますね。大原グランドの写真左側には、丸い屋根の体育館が写っています。公衆浴場は史跡図で、病院の上側の赤い通学路通りにありました。図の右上にプールがあり、帰りに皆でよく入りました。私も写真をUPすべく、ヤフーフォトを勉強中ですので、しばらくお待ちください」

次に、Kenさんの11/28コメント②を引用させて頂きます。

「一回り後輩のkenと申します。小生も浅野生まれです。川にかかった橋に裸電球の素朴な電飾が青、赤、橙、黄などで塗られてぼんやりと灯され、橋を渡ってまもなくのところに銭湯があった記憶があります。多分今から40数年前で、子供の風呂代が一人3円か5円くらいだったと思います。ダイマチ(台町?大町?)とかレンバイ(連売?/商店街)と呼んでいたいたのはどのあたりかご存知ですか?」

さらに、Qさんの11/29コメント③を引用させて頂きます。

「いろいろな方が現れて、にぎやかになってきましたね。
私が覚えているプールや公衆浴場は無料でしたので、kenさんの銭湯とは違う所でしょうか。レンバイというのもありましたね。確か配給所のことだったと記憶していますが?
あるいは、通学路に従って、学校からまっすぐ街に向かってきたときに、登り坂を登りきったT字路の手前右側にアーケード商店街がありました。入口が本屋、中ほどに板金屋、出口あたりに同級生の菅原床屋がありました。史跡図にも、それらしい長方形の区割りが見られます。
T字路を左に曲がると、右側に電気店と大沼時計店(模型店?)がありました。電気店も大沼だったかも?今回の写真に看板が写っているあたりです。当時、ラジオ少年だった私は、秋葉原では8円の抵抗が、そこの電気店では40円もしたことを覚えています。
電気店の坂道を下り、左折してしばらくいくと吊り橋があります。右折すると橋の手前左には同じく同級生だった堀田商店がありました。堀田商店では、食料品の出前聞きが私の家のあたりまで毎日来ていました。書き始めるときりがありませんね。今回はこの辺で」

最後に、Kenさんの12/5コメント④を引用させて頂きます。

「Qさん、ご回答ありがとうございました。
小生、幼少期に浅野を離れ、小学生になってから何度か浅野の親戚を訪れており、銭湯に行ったのは昭和40年代前半のことでした。銭湯代が不要だったところもあったのは小生にはわかりません。
それよりかなり遡った昔のことになりますが、祖父母がレンバイで和菓子屋をやっていたと聞いたことがあります。大沼時計店(模型店?)は聞いたことがあります。親戚にやはり模型が好きだった方がいて、一緒に連れて行ってもらった気がします。その頃、冬になると雪が深く、学校の空き地(グラウンド?)に雪が深く積もり、中では迷路トンネルが掘りめぐらされ、ところどころ地上にでる穴が開いていて、楽しく遊んだ記憶があります」


懐かしい浅野炭鉱の町が甦ります。Qさん、Kenさん、有り難うございます。

ブログのコメントをひもときますと、”浅野をふるさととするみんなの会”の会話ができてしまいますね。嬉しいですね。私には商店名は思い出したくても出てきません。もちろん、浅野の町でお金を持って買い物に出掛けた記憶もありませんから、これは仕方がないことと思います。

それで、①、Qさんのコメントですが、
私の記憶では、小学校の建物の周辺に何か建物が建っていたとの記憶が無いのです。そんな筈は無いのですがね。55年経って記憶が無くなっています。それで、浅野小学校には約1年半通いましたが、近くの建物にまで気が回らなかったものと思います。正門を入らずに左側に進み、留萌鉄道の線路を越えて行きますと、浅野中学校がありましたが、そちらにもでかけた記憶はないのです。でも、先生方の住まいは近くにあった筈ですよね。恥ずかしながら、途中の幌新太刀別川に架かる橋を渡った記憶もあやふやなのです。でも、私が小学生当時、学校の近くまでこんなに家があったかなと思っています。
配給所の中には、当時、父が一時的に働いていたこともあって、頻繁に出入りした記憶はあります。しかし、その建物の裏に何があったのかは憶えていません。もしかしたら、体育館は昭和30年以降の新しい建物だったのかも知れませんね。私は行動範囲が狭く、グランドで遊んだ記憶もそんなに無かったものですから。Qさんの時代の懐かしい思い出かも知れません。

②、Kenさんのコメントです、というか質問ですね。③、Qさんのコメントに回答が含まれてもいます。
公衆浴場、銭湯が通学路にあったらしいことは分かりました。私が、浅野の町では大原町と曙町しか知りませんので、台町、大町なんかもあったのでしょうか。浅野は大きな町でしたからね。私の通学路、地図で言えば橋の手前までの上側はどのように呼ばれていたのですかね。ちなみに下側は大原町でした。レンバイについては記憶にないですね。Qさんのコメント通り、配給所なのでしょうか。私はおぼろげながら米の配給所が別のところにあったと記憶しているのです。昭和方面に行ったところで、以前、私のブログで、ここにも橋があったと述べたことがありました、その近くです。また沼田町浅野地域史跡図に図示しますね。図の右側です。そこは、車が通れない橋だったように思いますが。橋を渡ると急な坂道になっていて、その先に私がよく遊んだ友人のお家がありました。かなり立派な家だったような気がします。

画像


アーケード商店街については私は記憶にありません。でも、商店の名前、床屋さんの名前が出てくると嬉しくなりますね。同級生がどこに住んでいたというのも浅野の町を思い描く手がかりになります。それで、大沼時計(模型)店、(大沼)電気店のお話が出てきました。昔は時計店が電気製品も販売していましたね。左折しての吊り橋は、私は憶えていませんので、昭和30年以降に出来たのかも。右折して橋の手前の商店は記憶にあります。私は堀田商店かどこか名前は憶えていませんが、橋の手前のお店で水飴(みずあめ)を買って食べた記憶があるのです。なんで普通の飴でなく水飴なのか不思議なのですが。この記憶もまったく点の記憶です。どうして、いつもはお金を持っていない私が水飴を買ったのかも、誰に買ってもらったのかも憶えてはいないのです。

④のKenさんのコメントです。
Kenさんの時代では配給所の名前がレンバイに呼称が変わっていたようですね。配給所というのは私には浅野時代だけですからね。でも、「はいきゅうじょに行って来るよ」、と私はよく出掛けました。そして、配給所の中で遊んでいました。しかも配給所の皆さんによく可愛がってもらったことを憶えています。だから配給所を忘れられないのです。あれからもう60年近くになります。レンバイもKenさんの思い出になるのでしょう。大雪の思い出は浅野の住人にとっては共通ですね。冬季は雪の重みで窓ガラスが壊れないように外側に板を張って補強しました。玄関側は除雪していましたが、最終的には外に出るのには玄関前の階段(雪の階段)を昇り外に出ましたからね。冬はずっと穴蔵の生活だったように思います。でも、雪かきは父と兄達の仕事で、私はあまりに小さかったので、楽しく遊んでいたように思います。浅野では雪かきに苦労した記憶がないからなのです。


今回はQさん、Kenさんの私のブログへのコメントをもとにつれづれぶろぐしてみました。Qさんが言われるように、ブログ仲間のコメントでブログのまわりが賑やかになってきました。本当に嬉しく思います。旧浅野炭鉱の住人の方、浅野炭鉱を故郷とされる方のコメントなり、質問なりで、わたしの「ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ」がホロピリ湖に沈んでしまった旧浅野炭鉱の町を少しでも思い出す”よすが”にしていただければ、ブログを開設した、私、ふらぬいの望外のよろこびでもあります。

すこし力んで言葉を選んでしまいましたが、旧浅野炭鉱の思い出で、ちょっとしたこと、あれなんだったっけ?、あんなこと憶えている?、と言ったことをコメントに頂けると嬉しいですね。そして、それなら私が知っている、誰さんなら知っている、とかコメントして頂けると、”浅野をふるさととするみんなの会”の輪が広まります。よろしくお願いします。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、またしてでした。

12月18日、Qさんからコメントをいただきました。いつも有り難うございます。Qさんが、あさのQ、浅野Qブログを開設されたとのことです。引用しますね。

「BIGLOBEウェブに登録しました。
http://08046784.at.webry.info/201012/article_1.html
史跡図に少し追記してみましたので、よろしければご覧下さい」

沼田町浅野地域史跡図がQさんにより追記されています。浅野の町の賑わいがかなり明らかになりますよ。スキー場やプールがあった場所も示されています。是非Qさんのブログにアクセスして下さい。
Qさん、コメント有り難うございます。Qさんの史跡図を私の次回のブログで使わせて頂きます。よろしくお願いします。 12月19日、ふらぬい追記

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック