ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、なおかつ

今回の、ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐは”なおかつ”です。この次は、”またして”です。さらに、”さて”、”さてさて”と続きます。今回の”なおかつ”で13回目ですね。團 伊玖磨さんの「パイプのけむり」は、最終巻が第27巻の”さよなら”まで続きましたね。「パイプのけむり」で使われる、これらの日本の言葉、表現はなんて美しく、素晴らしいのだろうと思いますね。まだまだ頑張りますからね。

でも、13番目の”なおかつ”までは、かなり時間がかかるのではないかと思っておりましたら、なんと、続けざまに使ってしまうことになりました。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、”重ね重ね”にMKさんからコメントを頂きました。MKさんに是非コメントを頂きたいと書いたのは私、ふらぬいです。浅野の町の写真を見つけました、とコメントを頂いたので、是非見せて下さいというブログが、あの”重ね重ね”ブログでした。MKさんが早速見せてくれましたので、皆さんにもお見せしたく、このブログを作成しました。MKさんのコメントは”重ね重ね”に載っておりますので、もう、Yahoo!フォトにアクセスされた方もあろうかと思いますが、MKさんのご好意に甘えまして、”なおかつ”ブログに再掲させていただきます。MKさん、本当に有り難うございます。コメントの2回目も反映しています。

引用始め、

「懐かしいと思って見てくださる方がいるのでしたら・・・と思い、古い写真ですが公開してみました。
浅野のまち(1)は、選炭場を撮った同じ所(反対側か?)で写したと思われます。昭和45年か46年の6月頃に訪れたはずです。詳しい撮影場所までわからないですが、雰囲気は伝わるでしょうか。

http://photos.yahoo.co.jp/ph/mie99koba/lst?.dir=/89b5&.src=ph&.order=&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/

引用終わり。

MKさんが浅野の町の写真を、浅野炭鉱を故郷にもつ皆さんのために、Yahoo!フォトに貼り付けて公開してくれました。MKさんのお宝でもありますし、浅野炭鉱を故郷とする私たちにとっても宝物です。本当に感謝しています。URLをクリックしますと懐かしい浅野炭鉱の町の写真を4枚、見ることができます。

私のPCのマイピクチャにも取り込みました。それで、拡大して懐かしい故郷の写真をじっくりと見てみましたよ。涙が出る個所もありました。Yahoo!フォトを開けない方のためにMKさんに代わって公開させて頂きます。

浅野小学校
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大原グランドから見た選炭場
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浅野のまち(1)
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浅野のまち(2)
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1枚目は浅野小学校、懐かしいですね。小学校の正面入り口を入って、左右両側に教室があって、私が憶えているのは、1年生、2年生の教室は入って、右側だったような。正面入り口を真っ直ぐ行くと奥に体育館がありました。その体育館での学芸会の写真は、ぶろぐでお見せしました。私が小学生の頃、昭和29年、30年ですが、浅野小学校の校舎が2階建てだったかどうかの記憶は定かではありません。

2枚目は大原町のグランドから見た選炭場の写真ですね。現在、ホロピリ湖と一緒に見ることの出来る浅野炭鉱唯一のあの遺跡ですね。背の低い木立のところを幌新太刀別川が、左から右に流れ、その向こう、川に並行して道路、さらに向こうに留萌鉄道の線路が走り、さらに向こう側が選炭場だったように思うのですが、どうですかね。

3枚目の浅野のまち(1)ですが、手前が幌新太刀別川ですね。向こう側に懐かしいNationalの看板が見えますので、あのお家は電機屋さんだったのでしょうね。新雨竜駅に近い市街地、場所的には川に沿った市街地のどこかですかね。

4枚目の浅野のまち(2)は、お酒の名前、男山でしょうか、が書かれた看板が見えると思うのですが、漢字3文字の浅野の町にあった飲食店みたいですね。酒屋、もしくは雑貨屋かも。浅野の飲食店に入った記憶はもちろんありませんので、私にはわかりません。浅野炭鉱の閉山が昭和43年11月ですから、その後、冬を何度か越して、このように家屋の破壊、崩壊が始まっていたのですね。少し涙が出ました。

いつもの沼田町浅野地域史跡図を貼り付けますね。MKさんの写真で分かるのは、浅野小学校(1枚目)、大原町のグランドから見た選炭場(2枚目)は場所的に間違いは無いと思います。浅野のまち(1)(3枚目)はMKさんが指摘しているようにグランドから幌新太刀別川越しに撮したものではないかと思いますね。浅野のまち(2)(4枚目)はどこを撮ったものか分かりませんが、あの看板が目印になりますか、どうでしょうか。

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私が浅野炭鉱の町を訪れたのは昭和63年8月でしたから、市街地に建物は全然無かったように思います。一緒に出掛けた長兄は、建物部分は全てブルドーザが入って除去したというようなことを言っていました。彼は役場の建設課におりましたのでその言葉で全て、どのように処置したかを表現していたのだと思います。それで、私は、選炭場のある道から橋を渡り、配給所と病院がある通りを進み、昔、我が家があったであろう大原町の炭鉱住宅を左手に見て通過し、道路を左折(炭鉱住宅が切れ、左折する個所はここしなかい筈)して、橋のあるところまで歩いて行きました。

左折個所は、私がブログで紹介した浅野小学校への近道として、曙町の山の上から降りてくる道が右折側にありました。ここは道路ではないので沼田町浅野地域史跡図にも載っておりませんでした。この通りを(左折も右折もせず)真っ直ぐ行った記憶があまりないのですが、その先に、大きな建物があって、そのさらに先に、父親がたまにプレーする、テニスコートがあったような気がします。気がするだけで、これも、記憶はかなりあやふやです。

ところで、公衆浴場、お風呂屋が大原町のどこかにあったような気がします。どこかは思い出せません。沼田町浅野地域史跡図には新雨竜駅の近くに1軒ありますね。私の記憶では、曙町の住宅には風呂があったように思いますが、大原町の炭鉱住宅に風呂は無かったように思っています。どちらにも無かったのかな、思い出せないですね。新雨竜駅近くの、あんな遠くまで風呂に入りに出掛けるのは無理でしょうから、大原町の近くのどこかに公衆浴場のお風呂屋があって、入浴にでかけたのでしょう。でも、何処に入りに行ったのかどうして思い出せないのが不思議なのですね。なんで風呂屋の話になってしまうのですかね。戻します。

それで、橋まであるいて行きましたね。その橋を渡ると浅野の市街地に繋がりますね。橋を渡って最初のT字路を左に行くと商店街、新雨竜駅、浅野小学校方面に続きます。右に行くとその突き当たりに映画館があったような気がします、というか、私は映画館だったと思っています。でも、私が子供ながらに入った記憶のある映画館は新雨竜駅に近い方の映画館だったような気がしています。中村錦之助の紅孔雀(べにくじゃく)、東千代之介の笛吹童子、どちらもその映画館で観たような気がしています。なんで映画の題名を憶えているのだろう、不思議ですね。しかしながら、浅野の商店街方面に行くその橋が、その時には、かなり朽ちていて渡るのも危険でしたので、浅野の商店街、新雨竜駅、浅野小中学校方面には行きませんでした。今でも印象に残っているのは、幌新太刀別川が、沈粉川(じんぷんがわ)ですね、なんと水が綺麗な川、清流だったのだろうと思ったことでした。私どもが住んでいた頃は、石炭を洗っていたため真っ黒でしたからね。

MKさんの、浅野のまち(1)、(2)は商店や飲食店があったそちらの写真なのでしょうね。

もし、写真を見て、何かお分かりの方がおられましたら、このブログにコメントでよろしいですので教えて下さい。

私のこのブログで掲載の写真はあまり拡大出来ないのですが、MKさんの Yahoo!フォトの写真をオリジナルサイズにしますと、拡大写真を見ることができますよ。

MKさん写真公開と提供、本当に有り難うございました。これからもどうぞよろしくお願いします。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、なおかつでした。

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この記事へのコメント

Q
2010年11月27日 22:28
とても懐かしく拝見しました。
小学校を撮影した手前の100mほどの所に、教員住宅の私の家がありました。写真左手前にあった校長住宅は、すでに取り壊されていますね。大原グランドの写真左側には、丸い屋根の体育館が写っています。公衆浴場は史跡図で、病院の上側の赤い通学路通りにありました。図の右上にプールがあり、帰りに皆でよく入りました。私も写真をUPすべく、ヤフーフォトを勉強中ですので、しばらくお待ちください。
ken
2010年11月28日 21:05
一回り後輩のkenと申します。小生も浅野生まれです。川にかかった橋に裸電球の素朴な電飾が青、赤、橙、黄などで塗られてぼんやりと灯され、橋を渡ってまもなくのところに銭湯があった記憶があります。多分今から40数年前で、子供の風呂代が一人3円か5円くらいだったと思います。ダイマチ(台町?大町?)とかレンバイ(連売?/商店街)と呼んでいたいたのはどのあたりかご存知ですか?
Q
2010年11月29日 22:30
いろいろな方が現れて、にぎやかになってきましたね。
私が覚えているプールや公衆浴場は無料でしたので、kenさんの銭湯とは違う所でしょうか。レンバイというのもありましたね。確か配給所のことだったと記憶していますが?
あるいは、通学路に従って、学校からまっすぐ街に向かってきたときに、登り坂を登りきったT字路の手前右側にアーケード商店街がありました。入口が本屋、中ほどに板金屋、出口あたりに同級生の菅原床屋がありました。史跡図にも、それらしい長方形の区割りが見られます。
T字路を左に曲がると、右側に電気店と大沼時計店(模型店?)がありました。電気店も大沼だったかも?今回の写真に看板が写っているあたりです。当時、ラジオ少年だった私は、秋葉原では8円の抵抗が、そこの電気店では40円もしたことを覚えています。
電気店の坂道を下り、左折してしばらくいくと吊り橋があります。右折すると橋の手前左には同じく同級生だった堀田商店がありました。堀田商店では、食料品の出前聞きが私の家のあたりまで毎日来ていました。書き始めるときりがありませんね。今回はこの辺で。
ken
2010年12月05日 21:03
Qさん、ご回答ありがとうございました。
小生、幼少期に浅野を離れ、小学生になってから何度か浅野の親戚を訪れており、銭湯に行ったのは昭和40年代前半のことでした。銭湯代が不要だったところもあったのは小生にはわかりません。
それよりかなり遡った昔のことになりますが、祖父母がレンバイで和菓子屋をやっていたと聞いたことがあります。大沼時計店(模型店?)は聞いたことがあります。親戚にやはり模型が好きだった方がいて、一緒に連れて行ってもらった気がします。その頃、冬になると雪が深く、学校の空き地(グラウンド?)に雪が深く積もり、中では迷路のようにトンネルが掘りめぐらされ、ところどころ地上にでる穴が開いていて、楽しく遊んだ記憶があります。

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