ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、またまた

この旧浅野炭坑のつれづれぶろぐが、あの団伊玖磨さんのパイプのけむりの本のタイトルの付け方に似てきましたが、意識していませんからね、なん~て言って、すごく意識しているみたいです。

今度は、1947年8月の旧浅野炭坑の航空写真をお見せします。米軍が撮ったもので、国土交通省のGISホームページからアクセスできました。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M455&photono=20

100dpiと200dpiでかなり不鮮明なのですが、私が生まれた当時の浅野炭坑の町です。新雨竜駅(だと思うのです)が記憶の中にあった場所よりかなり恵比島側に寄っているように見えるのです。もっと、大きな通りの近くを流れている幌新太刀別川に近かったように思っていたのです。だって私の記憶の中には、駅から出て左側に行ったところに映画館があり、駅から真っ直ぐ伸びた道の両側に商店があるのでしたからね。私の記憶の中にある新雨竜駅の位置が違っていたのでしょう。浅野小学校、中学校は建物自体が見えません。まだ校舎建築は行われていないのかな。小学校1年の時の浅野小学校は大きな学校(の記憶)でした。閉校は昭和45年と伺っていますが、開校はいつだったのですかね。大原町の炭坑住宅、曙町の山の上の住宅も見えます。うっすらと記憶がありますね。

私は、恵比島方面はよく出かけていて、幌新、恵比島はそれなりに町の記憶はあるのですが、昭和方面の記憶はまったくありません。隣町の太刀別、昭和に出かけた記憶はまったくありません。でも、位置的な考えは少しありました。同じホームページをアクセスしていて、浅野炭坑から昭和炭坑までの航空写真もありました。この写真も米軍が撮ったもので、1947年8月のものだそうです。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M455&photono=40

これも100dpiと200dpiでやはり不鮮明なのですが、見えますかね。おぼろげに太刀別、昭和の町の有様がわかります。もっと鮮明に見える400dpiでの公開が期待されます。これも無いものねだりなのですかね。

この国土交通省の国土変遷アーカイブ空中写真閲覧に掲載の写真ですが、1947年ですから、日本は当時アメリカの占領下にあったのですね。米軍の写真撮影の目的は何であれ、国土の写真として残っていることはすばらしいと思います。浅野炭坑その後の写真は1977、8年のものになっています。前回、”旧浅野炭坑ぶろぐ、また”でお見せしたものは、多分この時の写真です。つまり今回お見せしたものから約30年後の写真ですね。そのまた約30年後の写真が皆さんがよくぶろぐで見かける、沼田ダム、ホロピリ湖の美しい写真になる訳です。

記憶に残っているふるさと、旧浅野炭坑を少しずつひもといていっている訳ですが、自分の記憶の間違いに気が付くことが多いようですね。相変わらず、セピア色の思い出になっていますね。確かに昔は写真に残すこと自体が少なかったのですから、どのような記録でも貴重なものになりますね。

国土交通省のGISホームページにアクセスして、60年前の旧浅野炭坑、旧昭和炭坑の佇まいに触れてみました。

ふるさと、北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、またまたでした。


太刀別(たちべつ)を今まで大刀別と書いてきましたが、大刀別は私の本籍地として記載されていた地名でした。今は太刀別が正しいと思いますので、修正しました。ふらぬい記。



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この記事へのコメント

Q
2010年02月23日 21:52
小学2年生から中学入学まで、浅野ですごしました。
中学教師の父の転勤で、空知管内各地で暮らしましたが、なかでも浅野は一番思い出の残るふるさとです。
大原のグランドでは、よく野球をやりました。
ある時、向かいの坑口から、けたたましくサイレンが鳴り響き、みんなバットやグローブを放り投げてかけつけたことは、いまでも忘れられません。
東京オリンピックは、小学6年生のときでした。
同窓会などの情報があれば、ぜひ教えてください。

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