ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、まだ

タイトルの付け方を、団伊玖磨さんの”パイプのけむり”を真似て、これからも続けますからね。”またまた”の次は”まだ”です。

旧浅野炭坑に住んでおられた、ニックネームQさんからコメントをいただきました。本当に有り難うございます。小学校2年から中学校入学まで住んでおられたのですから、私よりずっと浅野炭坑の町をご存じなのでしょうね。大原町の野球場で野球をなさったと、川の向こうに選炭場が見える、沼田町浅野地域史跡図で大原グランドと書いてある、あそこですね。私は小さかったので、グランドで遊んだ記憶はなく、当時、大原町の私の住まいと病院との間に広場があったのでそこでよく遊びました。橋の近くで川遊び、兄と一緒に魚釣りかな、をしたのは記憶があります。でも、グランドでも遊んでいたのではないかと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。

Qさんから、この町、浅野炭坑です、出身者の同窓会みたいなものはあるのでしょうかとのおたずねでした。私には残念ながら分かりません。でも、中学校、大原グランドの話しがあって、また、古い事柄を思い出しました。

おぼろげではありますが、小学生の時、母と浅野炭坑、新雨竜の町を訪れたことがありました。どんな理由ででかけたのかは定かではありません。多分、母の知り合いが住んでいる浅野炭坑の色々な場所を訪れたことは記憶の片隅にあるのですが、それがどこかあまり定かではないのです。それで、上富良野から富良野線で旭川に出て、旭川→深川→恵比島と国鉄で行き、恵比島で留萌鉄道に乗り換え、新雨竜駅で降りたのでしょう。はっきり憶えていることと言えば、私も住んでいたことがあった曙町のMさんのお宅を訪ね、少しお話をしたということです。母とMさんの奥さんが友人だったのでしょう。何年何月だったかと考えてみましたら、当時、Mさんのお家にはTVがすでに有りました。今では変な表現ですが、これは不思議でもなんでもないのです。私の家には当時まだTVがありませんでした。私の家にTVがやって来たのは、中学1年の時ですからね、はっきり憶えています。それで、Mさんのお宅のTVで、あのトリオ・ロス・パンチョス(古いですね、知っている人がいるのかしら。でも当時は超有名人でした。)のTV放映が行われていた時なのです。彼らが初来日したのは、ネットで調べました、1959年12月ですから、私は小学校5年生だったと思います。そのあと、もしかしたらどこかに泊まって、次の日に上富良野に戻ったのです。どこに泊まったのかの記憶がこれもあいまいなのです。私の頭の中には、当時の浅野中学校方面の地理がまったく無いので、分からないのですが、そちらの方に、天理教? か何かの建物があって、そこに泊まったような気がするのです。新雨竜駅の近くだったかも知れません。どうしても記憶が断片的にしか戻りません。1947年の地図から、建物の姿、形は読みとれませんでしたからね。このぶろぐを開設し、沼田町浅野地域史跡図を紹介して、ぶろぐの中で旧浅野炭坑の街並みを憶えていると自慢したのですが、なんと言っても、憶えているのは、小学校2年の1学期まででしたからね。よく見直してみると、間違いだらけで、自信を失いつつあります。

それで、同窓会の話しですが、こんな思い出もありました。昭和63年、長兄と一緒に車で旧浅野炭坑の町の廃墟を訪れた時のことです。旧浅野炭坑の町を観た帰りに、たまたま幌新温泉(当時のです)に寄りました。母も兄嫁も一緒でしたので、帰り道は遠いので、少し休憩を取ろうということになったのです。その時、幌新温泉では、浅野会という宴会が開かれていました。懐かしくて母、長兄はその中に入っていったのを記憶しています。参加者が母、長兄に語ったところに寄ると、浅野の町の住人のほとんどは札幌に出ていったとの話しであり、今回のこの浅野会の会合には、札幌、旭川、沼田、北海道の他の町に移住していった人が久しぶりに集まって昔の話しに花を咲かせているとのことでした。いやあ、私達もあそこに住んでいたんだよ、懐かしいね、との話しになった、と後で長兄から聞きました。私は母や長兄ほど浅野の町に知己はいませんでしたので、当時はそんなに浅野会に興味は抱かなかったのかも知れません。

この浅野会が今でも続いているかは分かりませんが、札幌には沼田会、東京にも沼田会があると伺っていますのでそちらに吸収されて同窓会として存続しているかも知れません。

私はと言えば、第二の故郷である北海道富良野沿線のふるさと会の活動が主になっています。でも、旧浅野炭坑の集まりがあれば出席してみたい気持ちもあります。

もし、旧浅野炭坑の住人または関係者の集まりについてご存じの方がおられましたら、このぶろぐにてお知らせ下さい。よろしくお願いします。

ふるさと 北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、まだでした。


前回、”またまた”のぶろぐで、1947年の浅野炭坑の町の航空写真では、浅野小学校、浅野中学校の建物は見えないようです、と書きました。しかしながら、恵比島側から新雨竜駅に伸びる線路の左側に浅野小学校らしき建物は見えましたね。線路の右側には浅野中学校の建物がある筈なのですが、そこは広場になっていて、建物は見えないようです、が正しいようです。訂正させていただきます。もしかしたら、当時は浅野小学校、中学校が同じ校舎だったのかな、と思ったりしています。知っておられる方がいましたら教えて下さい。曙町の住宅から、よくこんな遠くの小学校まで通学していたと感心しています。私には兄が二人居りましたので、それも通学の支えになったのでしょうね。 2.28 ふらぬい追記


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この記事へのコメント

Q
2010年03月07日 00:10
同窓会のお話、ありがとうございます。
もう少し浅野の話をさせてください。
昭和46年ころに、浅野を訪れたことがあります。
まだ、ダムはなく、頻繁に工事のトラックが行きかっていました。いくつかの建物があり、人が住んでいる家もあったようです。小学校は、自衛隊が使っている様子でしたが、誰もいなかったので中へ入ることができました。中は当時のままで、児童が石炭を教室まで運ぶ、木の箱の運搬具が転がっていたのを覚えています。私もよく使いました。
それからも何度か訪れました。
20年ほど前には、すでにダムができていましたが、選炭場前の道路から町の中心部のT字路のところまで歩いていけました。
それから4,5年経って、もう一度行った時には、すでに満水で道路に降りることはできませんでした。向こう岸の水辺に立つ、昔よく遊んだ裏山の木々を何時間も眺めていました。ブランコを作って遊んだクルミの木や、引っ越す前に名前を刻んだ木が見えたような気がしました。
また、よろしくお願いいたします。

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