ふるさと、北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、続き

ふるさと、北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐの続きです。沼田町浅野地域史跡図をまた使いますからね。

横浜に本籍を移す前には、私の本籍は北海道空知郡上富良野町にありました。横浜に本籍を移す作業中、上富良野町から取り寄せた資料から、私の旧本籍に記載された出生地は北海道雨竜郡沼田町幌新大刀別757番地であることが分かりました。もちろん、この住所は現在、旧浅野炭坑と一緒でホロピリ湖に沈んでいるわけです。私はこの出生地の住所が、前回、旧浅野炭坑のつれづれブログで書いた大原(おおはら)町と同じと考えていました(違っているかも知れません、どちらももう存在しない地名ですから)。私の記憶の中では、この旧浅野炭坑(正式には沼田町字浅野新雨竜でした)の町名でおぼえているのが大原町と曙(あけぼの)町だけなのです。この町は当時2~3千人の人口がありましたので、もっと別の町名はあったと思います。大原町をおぼえているのは、ものごころついた時から大原町の炭坑住宅に住んでいて遊んでいたからなのです。それで、浅野小学校に入学する前に曙町の山の上の一番奥の住宅に引っ越していました。いつ引っ越したかは定かではありません。

浅野小学校には曙町の山の上の一番奥の住宅から通学しました。通学には病院に続く坂道ではなく、途中から右側に降りていく坂道を通った記憶があります。大原町と曙町の住民が浅野の町の商店街、新雨竜駅に行くには必ず、幌新大刀別川(ほろしんたちべつがわ?こんな長い名称だったか自信がないのです)に架かる大きな橋を渡る必要がありました。曙町の山の上のさらに奥の住人は、大原町に降りていく、人だけが通れる坂道(階段?)があったのです(史跡図には載っていないですね)。私は曙町と大原町を最短距離で結ぶ、人だけが通れる坂道を降りて、先述の橋を渡り、商店街を抜け、新雨竜駅を左手に見て、浅野小学校へ急いだものでした。通学路をあの史跡図に追加しました(下図)。

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子供時代の記憶というものは不思議なもので、旧浅野炭坑の町がダム湖に沈んだように、一端無くなってしまったものに記憶の糸をつなぐのは難しいと思います。前回、曙町の我が家の前で撮った写真は家全体をお見せするためのものでした。こんどは友人の顔が見えるものです。親友だったと思いますが交流はありませんし、名前もなかなか思い出せません。もう一枚の写真、これは浅野小学校1年生の時の学芸会の写真です(と思う)。左から2番目の半ズボンの男子が私です。この写真も父が撮ったものと思います。でも、記憶にはまったくないのです。出演者の名前も思い出せないのです。私が小学校2年の2学期から北海道空知郡上富良野町に移ったので、浅野小学校の1年生、2年生の記憶はどこかに行ってしまったようです。浅野小学校はそれなりに生徒数も多く、大きな小学校だったように思いますが、どうなんでしょうか。学芸会の写真(上)と曙町の自宅前で友人と撮った写真(下)です。
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上富良野小学校の卒業写真には3年以降の記録(記憶)が残っている。これは、西暦1960年の上富良野小学校の卒業アルバムに写真が掲載されているから分かるのである。浅野小学校の記憶だけが無いのである。多分、昔は浅野小学校でも卒業写真集を作ったと思うのだが、どうであろうか。もし、1960年の浅野小学校卒業生で卒業アルバムをまだ持っている方がおられたら、その小学校1年生時代の写真を見てみたいものである。また、当時浅野小学校を管理した沼田町に当時の卒業アルバムがあるのなら見てみたい気がする。これは無理な要求かもしれないですね。この浅野小学校がいつまで続いたかわからないが、浅野炭坑が昭和43年に閉山した後も住人はいたのだから数年間は閉校にはならず、小学校は存続していたのではないかと思う。

私が昭和63年夏に旧浅野炭坑の町を兄と訪れた時には、炭坑住宅も浅野小、中学校も存在してはいなかった。それから4年後この町はダム湖(ホロピリ湖)の下に沈んだのであるから。

つい先日、その浅野小学校と浅野中学校の写真提供を求めているホームページがあることを知ってびっくりしました。この旧浅野炭坑の町は沼田町字浅野新雨竜という郵便番地でもあったから、いまの沼田町にはすべてその記録(写真を含む)があるのではないかと思っている。つまり、沼田町の歴史、記録として残っているのではないかと考えている。小学2年生であった私にでも、この旧浅野炭坑の町は大きな町だったとの印象はある。映画館も2館あった。商店街もあった。病院、配給所、テニスコートも子供達が遊ぶところもそこかしこにあった。これは昭和22年から昭和30年までのことであるから、その後、大きな時代の波をこの町が被ったことは聞き及んではいるが、市街の佇まいの記憶は私の記憶の中に、点あるいは線としてあるのです。

私が沼田町には出掛けた記憶はないが、出掛けることがあれば調べてみたいことがたくさんある。旧浅野炭坑の町の様子、特に昭和25年~50年の様子があれば見てみたい気がする。沼田町の郷土資料館(あるのかな)に行けば見ることができるかもしれない。

思い出探し、思い出確認の内容でしたね。失礼しました。

ふるさと、北海道雨竜郡沼田町旧浅野炭坑のつれづれぶろぐ、続きでした。

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この記事へのコメント

沼田町の亀吉
2010年01月06日 11:14
はじめまして。
沼田町で検索をしていましたら、
漂着いたしました。

私は、北海道の沼田町役場で
炭鉱あとなんかも担当している亀吉と申します。

最近は、昔住んでいて
炭鉱のあとなんかを見に来る方がとても多いですよ。

地図なんかもありますので、
お気軽にご連絡ください!
3ヶ月に1回くらいは上京しておりますので、
お会いできると良いですね!
それでは。
元住民?かな
2010年02月09日 13:46
突然のコメント失礼します。

私は、昭和38年~43年まで(生まれて~6歳まで)住んでいました。
時折、両親に懐かしい情報をと思い 浅野について検索をしていましたら、出会いました。

祖父母が浅野に住むようになり、父母、私姉妹の 3世代で お世話になった地ですね。

私の記憶は幼稚園までですので、ほとんど薄いのですが、 家は 駅より通学路にぶつかった所の角で、
庭の下に沈粉川(通称だと思われます)が流れていて、
川の底は黒かったな~ 家~学校の方へ行くと、祖父母の家が・・・ わが家は白い犬、祖父母は黒い犬をかっていましたね。
なんて、どうでも良い事を長々すいません。

ついつい地図を見て、思い出してしまいました。
MK
2010年03月08日 14:53
突然で失礼いたします。

現在札幌在住の者ですが、私も昭和40年(?)~閉山近く43年頃の6歳まで住んでいました。
上の方とは幼稚園で一緒だったのかもしれません
兄が浅野小学校に通っていて、当時は松・竹・梅と
複数のクラスがあり大変賑やかだった学校が
閉山間近ともなると児童数が減り、寂しくなっていった記憶があります(聞いた話です)
病院や配給所へはよく母に連れられて行きました。
こんな位置関係だったのですね。

今から思えば、とてつもなく大自然の中での暮らしで
雪の多さが尋常でなかった・・・冬は家の一階部分が雪で埋まり、窓は父が板を打ち付け玄関へは雪の階段で出入りしていたような・・・

現在湖底に沈んだ地にあれだけ繁栄していた街があり、
自分も暮らしていたことが不思議に思えます。
もう無い街なので懐かしく思えるのでしょうか?
父の転勤で住んだ浅野ですが、炭鉱の街という独特な雰囲気からか、妙に記憶に残ります。
こちらのブログで浅野地域史跡図を見つけて、
思わずコメントしてしまいました。



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